いい時間といい場の相互作用

出掛けに重要なメールが来て、いろいろ調べたり読んだり
返事を書いていたら出遅れてしまったので、やや焦る。
駅まで早足で歩いてたら、先輩のTさんに自転車で追い抜かれ、
向こうでまた会おうねと言ってぴゅーっと去ってった。速っ。
電車に乗ったら汗が噴き出して、一度席に座れたけれど
熱くてたまらないのですぐに立ち上がって扇いで風を送る。
なんだか寒い日な気がしてコートを着たのは失敗だった。


電車も遅れてた。最寄り駅にやっと着いたと思ったら
今度は出口を間違えて反対側に出てしまったことを
道路に立っていた地図を見て現在位置を確認して知る。
すごく新しくてどでかい建物にエスカレーターが
何層にも重なっていて乗り換え乗り継ぎ上に登ってく。
予想よりは早く着いてイントロの途中で間に合った、
というかイントロに間に合わなかったと言うべきか。
実はこのイントロが今日のハイライトだったという
可能性も完全には否定できないほど重要だったかもと
あとで気が付いたけれどこのときはまだよかった
ボスの話には間に合ったと勝手に安堵してしまった。


ときどき、「〜だわなあ」という語尾があって、
これは以前は聞いたことがなかったものなので
誰由来の影響なんだろうかといぶかしがる。


オーガナイザーの先生はとにかくすごい人だった。
きちんとポイントを的確に衝いていらっしゃる。
脳科学の足りない点や苦しいところを理解され、
それを表現できるかもしれない思想や言葉を持つ。
言葉というのはゆるいものだと漠然と感じてたけど
そうじゃない。ゆるくしか扱えない人の使うものが
ゆるいのであり、厳密に扱おうとしている人にとって
それはまったき核心を掴むのに容赦なく正確無比だ。


それから、哲学者の名前が飛び交うような空間に
身を置くという体験を初めてした。恍惚に近い。
もちろん、名前を聞いたことがあるというだけの
レベルでしかない自分だけれど、それらを読んで
熱心に語る群衆に取り囲まれると感化されそう。
あたりまえだと思っていたし疑いもしないことを
論理的に糾弾して解体して真実を暴く試みとか痺れる。
個人的には、フランス現代文学をやってる人がひたすら
謙虚で、この人かっこいいと羨望の眼差しを向けてた。
言葉を持ってるかどうかということを自分は今まで
ちっとも真剣に考えずに通り過ぎて来たのだと悟る。
知ってるかどうかは関係ない。知るだけは簡単。
それが自分の言葉になるかどうかは格闘を要する。


見た目は全然ちがうけど、あさりを彷彿とさせる
雰囲気のお店でまったり他流試合を楽しみながら
人々が真摯でありかつナイーブな生き物になり、
胸の内を言葉に仮託して響き合いに酔いしれる。
談笑しつつも手を抜かず、大切なことが伝わる。


思想系の人たちは言ってることがおもしろいし、
アート系の人もぶっ飛んでる感じがたまらない。
だけど、empirical science系の人たちだけが
狭いところで息苦しそうにしてるのは変だよ。
もっと言いたいことを言って、堂々としようぜ。
言いたいこと言うには、まず息の仕方を思い出せ。
いらない肩の荷は捨てて、自由のみになる。