パイドロスにおいて歩くことがソクラテスに教えたこと

変な時間に目がさめて冴えてしまったので
久しぶりにブログでも書く。


140文字で書くことに慣れて、要約する力や抽出する力
のようなものは身についたかもしれないけれど、それは
裏を返せば、細部に言及することなしに軽く流せてしまうので、
どんどん浅くなって上滑りして、作り込むことを嫌いさえ
するようになってきたと感じる。


もちろん、かつてのようにだらだらと気の向くままに書き続けたり、
書きあぐねたりすること自体が重要であったかどうか
は分からない。ただ、過去のログを読み返すと、今よりも
もっと贅沢で優雅な時間が流れていたようにも読める。
確実に、手に入る情報は増えたのに、やおら遽しくなって
ゆっくり考える時間が逓減している。


つながることやつながりが重要視され、ソーシャルの価値が
しきりに喧伝される。そこに差し挟むべき異論はない。
これらのキーワードがタイトルに入っている本なども
よく目にするようになって、多数派を占める頃合いに、
そのアンチが登場するのも時代の流れであったかもしれないが、
敢えて、つながらないことを掲げた本を書店で見かけて気になった。

つながらない生活 ― 「ネット世間」との距離のとり方

つながらない生活 ― 「ネット世間」との距離のとり方


一章だけしか読んでいないので他の部分がどうかは未知なのだけれど、
プラトンの『パイドロス』に出てくるソクラテスの話
を紹介した章が興味深かった。
ソクラテスはより大勢の人々と話すことが大事だと考えたので、
人の多いアテナイ市内からほとんど出ることがなかったと言う。
しかし、あるとき若者に誘われて郊外の自然豊かな場所へ
歩いて散歩に出掛け


親切にまとめられたポイントだけがこの後に書いてあると
期待してはいけない。続きが気になるなら自分で読むべきだ。
眠くなったので寝落ちして続きを書きそびれたということを
喝破してくれてもよい。


今朝読み返して目立つ瑕疵は、改行の仕方が下手になった
という事実で、若干しょげている。変な詩みたいだ。
たぶんそれは息の吸い方を忘れてしまったような。