何もしないときにはわたししかいないのか
だいぶ前にイアコボーニの「ミラーニューロンの発見」を読み終わった。
リゾラッティらの本よりもこちらの方が読みやすいし断然おもしろかった。
それでちょっとひっかかった部分。
私はつねに他人との関係において定義されている。
そう考えると、ミラーニューロンシステムに加え、脳内には
自己と他者に関わるもう一つの神経系――デフォルトネットワーク――
があって、そこでは自己と他者がそれぞれ独立しているように思われる。
ミラーニューロンが自己と他者との身体的な側面を担当しているとすれば、
デフォルトネットワークは自己と他者との関係の、もっと抽象的な
側面を担当しているに違いない。それは各人が属している
社会やコミュニティで、各人が果たしている役割である。
デフォルトネットワークが自己と他者に関係している、
というのが新しい説のように聞こえて気になった。
その後考えていたらちょっと分かった気がして、でも
時間がなくて急いでそのときノートにメモした言葉。
他者についてdefaultではあり得ない
すごく重要な気がした。デフォルトが自分
というのは言うまでもなく当たり前なのだけれど、
それ以上の何かがあるような予感がした。
その近くで引用されてる言葉も何やら深く沁みる。
私は他人の表情の中に生きており、と同時に、
相手が私の中に生きているのを感じる。
私たちが見ているのは感情である・・・・・・
私たちは顔の歪みを見ているのではなく、
相手が歓喜や悲嘆や退屈を感じているのだ
と推論している。
ある顔が悲しげである、晴れやかである、
飽き飽きしていると、即座に描写する。
たとえそれ以外の特徴をまるで描写できなくてもだ。
ところで、何もしていないときにあっては、
わたししかいないのか、わたしすらいないのか。
それとも、何もしていないわたしは他者だろうか。
わたしの知らない、介入できないわたしの部分が
もし他者だとすれば、デフォルトはわたしか?
メタ認知は他者についての記述のようにも見える。