リアリティ

11/16(Fri)
後輩の発表を聞こうと急いで移動した、
けど大幅に遅刻した。ごめん。


その前の仕事(そうか、仕事なんだよな)の
約束相手に突発的に会議が入ってしまったとかで
結局お会いできなかった。がびーん。
社会人の常識として、アポはもっときちんと
取らなきゃダメだな。
いつまでもmoratoriumじゃないってこと。

sychosocial moratorium: In ego psychology, a term introduced by the German-born psychoanalyst Erik H. Erikson (1902-94) to denote a ‘time out of life’ during which a person can retain a fluid identity, such a period often being a feature of early post-adolescent life in modern industrial societies, when young adults can take time out by travelling, for example, before settling into more fixed identities constrained by work and relationships. by Encyclopedia.com

エリクソンの用語だったんだね。


二人目の発表を聴いている中で、
「臨場感」という単語を聞いたときに、
突然、はっと思いだした、
自分もずっと前にその単語を使ったことを。


それは二年以上も前のことなので、
そのときのことはおぼろげにしか
憶えていなかったのだけれど。
机の中を片付けていてたまたま見つけた
メモを読んだらかなり意外だった。

脳がリアリティをどう感じ取るか? に興味。

  • 違いに敏感な脳
  • 違いに鈍感な脳


ある人の講演を             以前にもラジオやテレビ
聴きに行った              で聞いたり見たりした
 Liveで ←――――――――→ 録音録画
           決定的に違う!


物理的な(刺激の)違いだけでなく、
受け取る側の脳の働きの違い?
リアリティに敏感


映画を観ているとき
 人が感情を表に出して
 物語の登場人物    ←――――――→ 役者の演技
 泣いている
  感情移入:共感             メタな視点:しらじらしい


いい映画では、メタの視点が消える
リアリティに鈍感


生身の人間が動いているのに、
どうしてこんなに弱いのだろう?


「生の切実さ」


従来、文学や芸術の扱う分野…
しかし、科学もそういうことに目を向けるべきときだ


どうも、院試の面接のときには
こんなテーマでプレゼンしたらしい。
ほとんどすっかり忘れていたので
自分でも驚愕の事実の発掘であり、
かぶれてる感じが、懐かしいかも。
(恥ずかし過ぎるメモ書きだけど、
それにしてもよく残っていたものだ。)


このときに、臨場感という言葉を
説明に使ったのだけは覚えている。
それで、面接官の中の一人が

リアリティに興味があるなら
木村敏を読んでみるといい

とおっしゃったのを思い出した。
調べもせず、まだ読んでいないけど、
読む価値がありそうな気がする。


リアリティや雰囲気という意味では、
後輩の興味にかなり近かったらしい。
そのことを後で伝えたら、なんでそれを
研究テーマにしなかったんですか?
と逆に聞かれてしまい、答えに窮した。


実はこの話は二回目の面接のときで、
どういう話なら面接官に分かりやすいか、
を重視して考え直した内容だった。
というのも、一回目はもっとストレートに、
人間に目を向けなければならないと思った
直接の理由を素直に話そうと、もがいて、
うまく言葉にできず、まとめられなかった。


それでも、自分にとって一番切実な問題
について扱ったという意味では、一回目
の方が正直だったのだろうと今でも思う。
何に引っかかっていたのか、今なら
もう少し冷静に分析できると思うので、
この機会に書き下してみておこう。


Autistic傾向のある子どもたちと接していると、
まずこちらを向いて目線を合わせてくれないし、
話しかけても反応してくれないように見えて、
こちらが存在しないかのように振る舞う。
それは不思議な体験で、まるで突然自分が
「透明人間」にでもなったような錯覚を覚える。
どうも、相手からこちらは見えないらしい。


しかし同時に、こちらがいかに働きかけよう
としても完全に無視されているように見えて、
どうすればいいのか分からない無力感や
自分の存在が認められず、ないものとして
扱われたような強い疎外感がのしかかる。
最初のうちは、だから、かなり堪える。


それでも、一緒にいる時間を重ねるにつれ、
あるときから、無視されていたわけではなく、
その子なりの見方でちゃんと見てくれている
のだろうと次第に思えるようになったし、
直接返事をしたり首を振ってくれなくても
話しかけた言葉は理解してくれているみたいだ、
と徐々に確信を持てるようになって行った。
でも、こちらの存在を確かに認めてもらえてる、
とはっきり自信が持てるまで3、4年かかった。


ではその間に何が変わったのか?
そう思えるように、まず自分が変わっただろう。
相手が出している見落としてしまいそうな
小さなサインとかに気付けるようになった
のかもしれない。その子がどういうときに
どういう行動を取るのか、今何を考えていて
何をしたがってるのか、何が大好きで、
何を嫌がったり何を怖がって、そういうときは
どうやったら納得したり、安心してくれるか。
その子についての膨大な情報が蓄積されて
だんだん気持ちが分かるようになって行く。


一方、子どもの方も変わったかもしれない。
もしかしたら最初は、背景の一部くらいに
思ってたかもしれないものが、やたら自分に
ちょっかいを出してくるので目障りだな、
邪魔するなよ、という感じだったのかも。
でも、何度も繰り返し、ああだこうだと
がみがみ言われたり、手を引っ張られたり、
もちろん力いっぱい抵抗したりするのに
それでも向こうも諦めないで続けるので
これは何かあるに違いない、とかね。
何か伝えようとしてる、ということに
最初からかもしれないし、途中からか、
いつか気付いてくれるようになった。


そういう意味では、双方が成長して、
お互いの存在を認められるようになった
というのが一番近かったような気がする。
子どもごとのその子なりのあり方を
認められるようになってはじめて、
こちらのことも認めてもらえるように。


自閉症の子どもは心の理論によって
特徴付けられる、という言明は
科学的に正しいのかもしれない。
けれど、それを言うなら、
自閉症の人と接する人の方にも
心の理論が欠けていたのではないか?


心の理論がないという言い方に
ものすごい抵抗感を感じていた。
そんなことを言ったら、そもそも
誰にだってそんなものないじゃないか、
と屁理屈でもって否定したくなった。
それは、その表現がまるで、心がない、
と言ってるように聞こえたからで、
感情的な拒否反応だったように思う。


私情を挟んだら研究対象にならないし、
科学的な客観性を失いかねないけれど、
心の理論が欠けている、という捉え方は
自分が感じた直観に反していた。
単に自分の勉強不足の可能性はある。


今から思えば、これこれこういう症例が
あるといった文献の知識ではなくて、
まったく何も知らないところから
いきなり文字通り体当たりで始める、
というのは良かったのかもしれない。
たとえば、道路に飛び出そうとしたら
体を張って止めるとか、怖がって
しがみついてきたら強く抱きしめて
安心感を与えるとか。


そういうのは当然、初めは困惑して、
先輩の見よう見真似でやっているうちに
言葉だけではない意思疎通のはかり方が
なんとなく分かって、自分なりに
気持ちの汲み取り方のようなものが
身に付く(これも文字通り、身に付くのかも)
過程の変化が自分に起こっていたことが
どういうことなのか、知りたかった。


自分の身に引き寄せられる事柄、
人間関係どうしたらいいのか、とか、
広く人間に関する問題意識が芽生えた。
そして、たぶん少しは人間らしくなれた。