オリオン座の左下の

ここ1週間ちょっとの読書記録。


まず、12月1日(土)の夜。

『冬が来た日に』柴崎友香
2006年11月26日(日)日経新聞 35面


2007年7月7日(土)〜12月1日(土)
土曜日夕刊での柴崎友香の連載(21回分)


1年前に一度載った大きな記事ひとつと、
ここ半年くらいこつこつ切り取り集めていた
柴崎さんの記事がだいぶ溜まってきたので
透明なファイルに一枚ずつ入れながら
整理し始めたら、ついでに読んでしまった。


日常に見たこと、感じたこと、思ったことを
そのまま描いたエッセイなのだろうけれど、
これが小説でも全然違和感を感じないだろう。
というのが柴崎さんの小説や、同じことが
保坂和志の場合にも当てはまると思うけれど、
ノンフィクションとフィクションの境目など
いとも簡単に乗り越えているのはすごい。


柴崎さんはカメラを、保坂さんは映画を
学生時代にやっていたのだそうだから、
(そんなこと意識しているかどうかは別として、)
その延長というか、ある意味、外挿として
小説が位置付けられているのではないか、
と勝手に想像してしまったりもする。
実際に撮れる画を頭の中にイメージして
それを言葉に置き換えられるように
なったんじゃないかということ。
それだけでも驚嘆すべき能力だと思う。


それにしても、毎週土曜日の夕方が
待ち遠しくて、早く夕刊が来ないかなと
心待ちにしている瞬間にも少し慣れた。
ずっと続けばいいのにとも思うけれど、
それも今月一杯のことなのだろうとも
どこかできちんと把握しているのも事実。
さらりと読んでから丁寧に切り取り、
もう一度ゆっくり読み返し大事にしまう。
毎回同じ作業で一週間の経過を測れる、
という習慣も不思議な感覚がする。


読み始めたら、何かが止まらなくなって、
少し前に買ってあった本を取り出した。


ロードもの。NYの青年があるとき突然、自分も旅に出なきゃいけない
と家を飛び出し、デンヴァー経由で西海岸のフリスコを目指す。25歳。
全行程、車。ヒッチハイクや代行運転、お金があればときどきバス、
ひたすら乗り継ぎ、ぶっ飛ばしまくって、大陸横断3回+縦断1回。


読んでるこちらもだんだんノッてきて、10時間ぐらい
ぶっ続けで読んで、バタンと倒れて泥のように眠って、
また起きたら読み始めて、疾走感を一緒に味わった。
中学生の頃は、お気に入りの作家の新作を買ったら、
その日は必ず徹夜して読み切るという無茶をしたけど、
その快読パターンを久しぶりに思い出した気がする。


村上春樹の『スプートニクの恋人』に出てくる
ビート世代の旗手の一人が、著者のケルアック。
というより、前そっちを思い出したときから
ケルアックという名前が気になっていた。
今回新訳が出たという噂を聞きすぐ反応した。


ビート世代というのはケルアックの命名で、
beatとはくたびれたというような意味らしい。
もともとスラングで、ドラッグの世界では
特別な意味を込めて使われるのだという。
騙される、ふんだくられる、精神的肉体的に消耗する、
という意味で、ヘロインだと思って紙包みを買って
家に帰って開けてみたら、中に入っていたのは
ただの砂糖だった、という逸話があるとか。


でも、そんなネガティブな意味合いでありながら、
ケルアックの手にかかると、

“He was BEAT―the root, the soul of Beatific.”

beatとは、至福の、とか、祝福を与えるという意味の
beatificの根っこであり魂である、と。
原文で読んだらもっとたくさん言葉遊びとか
言葉のイメージを大切にしてるんだろうと思う。


この本は実話を元にしてて、登場人物たちにも
実在のモデルが存在する。というのがまず驚き。
ケルアックと並びビート世代として有名な
ウィリアム・バロウズアレン・ギンズバーグ
名前は代わっているけれどちゃんと登場する。
主人公が最も強く惹かれる存在であるディーンにも
モデルがいて、こんな破天荒な人は信じられない。
酒に煙草、女、ドラッグ、スピード狂で放浪癖、
とことん狂っているとしか言いようがないけれど、
ケルアックら「知識人」には新鮮に映ったのだろう。


50年前の"くたびれた"アメリカの若者たちが
どんな方向に憧れて、突っ走ったのかという、
生の感情がひしひしと伝わってくる気がした。
10年間構想を温め、最後の3週間で
タイプライターを打ち続けて書き上げた伝説。
紙を取り換える手間を省くため、全ての紙の
上下をつないだロールにタイプしたらしく、
遺された草稿は37メートルもの巻物だった。


ケルアックは記憶力が冴えわたっていたらしく、
子どもの頃のあだ名は、Memory Babeらしい。
若者たちが飲んで夜通し語り合った会話まで
すべて記憶していたかどうかは定かでないけど、
ケルアックのどこかに痕跡が残っていたものを
うわっと取り出し、とめどなく書き連ねた
リアルな記憶そのものがこの本なんだと思った。


日は飛ぶ。


雨が降った日、何日のことだったろうか、
夜散歩に出かけたら、満天の星が瞬いていた。


街はどこもクリスマスのイルミネーションが
煌々と灯されているのを目にするのだけれど、
そんなもの、必要ないんじゃないだろうか。


すこし目を宇宙に向けるだけで、そこに
もっときれいな明りが見えるということを
いつからみんな忘れてしまったんだろう。


オリオン座の左下の星を懸命に探した。
4つの中では一番暗いからむずかしい。
吐く息が白いのを我慢して目を凝らしていたら、
やっとかすかに捉えられて、安心した。
コートを着てくるのを忘れていることを
思い出したけれど、もう少し星を見ていた。


さらに何日か経つ。


保坂和志の最新作を手に入れたので少しずつ。


今までで一番、蛍光ペンでたくさん線を引きながら
納得してうなづきながら読んだ本になると思う。
もちろん、すべてに同意したというわけではない。
タイトルがやや、いや、相当刺激的に見えるが、
それが全然嫌味になってなどいない内容だった。
昔は言葉にできないことばかりだと信じていて、
その無力感の方に気を取られることが多かったが、
文学の力をもっと信頼しようという気になった。


かなり不思議なことだけれど、この本が
小説ではない、という事実はかなり新鮮だ。
そのような趣旨のことは前にも書いたけれど、
保坂さんのこのような小説以外の作品は、
小説でなくして小説たりえている気がする。
そんな区分を無効にする何かがあるのか。
一人称独白系ではありながら抑制が効いて、
思考の流れを見せてくれるところが好きだ。
その文体は真似しようとしてもできない。


そして、何日か。


昔買った本を思い出して掘り出した。


ツキコさんとセンセイの淡い恋情をえがく。
と書いてしまうと、失われるものが多すぎる。
そんな1行のあらすじで表せる代物ではない。
くっつくまでが、どうして、これがなかなか
もうじれったくて、むずむずしてそわそわする。
ツキコさんは37で、センセイは30以上も上、
でもそんなことは全然問題ではないのである。
二人はお酒の趣味が合い、肴の好みも合い、
たまたま居酒屋でとなり合せて再会する。


食い物の書かれ方が実にうまい。
質感とか見た目とか味とかそんなものは
よく考えたら全然書かれていないのに、
名前の並べ方だけで何かを表している。
谷崎潤一郎賞をもらわれたそうだけど、
谷崎は美食家としてよく知られる。
だから、食い物の書かれ方はきっと
審査のポイントになったんだろうか。


センセイは変わりもので、負けぬくらい
ツキコさんの思考法も変わっているけれど、
現実的に話はゆったりと進んでゆく。
途中から、しかし、ふんわり現実を
離れるような瞬間が出てくるようになる。
酔っているのか。夢を見ているのか。
ここはどこだ。ときどき来るんですよ、
とセンセイ。でもなぜ二人一緒なのだ。
さっきまでたしかに居酒屋のカウンターに
腰かけていたのだけれど。まあいい。


センセイは元国語の先生だけれど、
ほんのすこしだけ、小川洋子
博士の愛した数式」に出てくる博士に
似ていないこともない。どこが?
と聞かれても答えに窮するけれど、
もちろん、全然似てなどいないけれど、
落ち着いた感じなどがどことなく。
博士のように悲劇的な事情を患ってなど
いなくても、十分に作品を作り上げられる、
ということを、今すこし思った。


話はすこし逸れるけれど、小川さんの本は
死を意識し過ぎているきらいがある、
と前々から思っていたところがあった。
と思ったら、最初は病院に勤めていて、
手術が終わった後の医師たちのぶくぶくに
膨れた手(昔の手袋は通気が悪かったらしい)に
施術された患者の生死を想像せずにいられなかった、
ということを最近新聞の記事に寄せていた。


それだけではないだろうけれど、それでも、
死と暗いイメージが付きまとっている
ような印象はたぶん当の本人も承知だろう。
それが、『博士〜』を書いたところから
変わり始めたということを述懐していた。
陳腐な表現を承知で表すことを許せば、
生への希望とでも呼んだら粗過ぎるのか。
すくなくとも明るくなったように思った。


その後、少女を主人公に据えた作品、
『ミーナの行進』では、死のイメージは
描かれても暗くではなく明るい感じに、
病気がちな少女が楽しく生きるさまを
ユーモアを交えて表現して笑いを誘う。
だって、カバに乗って登校する少女、
だなんて、だれが想像できたものか。


もとい。一方センセイには悲劇性はない、
と言えば嘘になるけれど、博士とは違う。
妻に逃げられて、出奔先で亡くなった
という過去を持ってはいるけれど、
それだからと絶望しているわけでもなく、
そのことを心に大切に仕舞っている。
しばらくさぼっていたお墓参りに、
ツキコさんを連れだって赴く場面。
亡き妻になんと語りかけたのだろう。


その夜、宿の別々の部屋で、悶々とする
ツキコさんがセンセイの室を訪ねると、
センセイは俳句作りに没頭していた。
つくづく、変なセンセイではある。
それで、ツキコさんはなかばやけくそで
生まれて初めて一緒に俳句作りをする。
下の七音に悩んでいるセンセイに
ツキコさんが提案した語がしっくり来て、
芭蕉本歌取りになったと講釈する。


最後の方で、センセイはツキコさんを
デートに誘う。そして、正式なお付き合いを
してくださいませんかと頭を下げる。
だったら、今までのは何だったのか、
と一瞬、あっけにとられるツキコさん。
ツキコさんの強い勧めで携帯電話を
持つことになった先生。あくまでも、
ケータイではなく、携帯電話を、である。


センセイから電話がかかってきたのは
けっきょく一回だけだった。大根と
ほうれん草を買ったという八百屋の前から、
ツキコさんは、ほんとうにいい子ですね、
と電話が掛かってきたことがあった。
すぐに切れたので、後で家に掛け直すと、
家にいらっしゃいとお呼びになった。
朝になって雨戸を開けると、実をついばむ
ヒヨドリのギョーギョーという声が響いた。


次の日だったか。川上さんの新作を発見。
ついついそのままねばって読んでしまった。


川上弘美の文体は変わっている。
とくに、人間を含めた生物の描写が風変わり。
そこでもって、そうそう、もともと
理学部生物学科卒で、中高で生物の先生も
やってんだっけ、ということを持ち出すのは
あまりにもつまらない展開なのでやめる。
そおんなことはなあんの関係もないのだ。


この日記調の本の5分の4はほんとうらしい。
にわかには信じがたいが本当なのだと言う。
言葉の綾が絶妙なので作り話にも見える、
面白いできごとが実生活で起こっている。
川上さんの息子のセリフは感銘を受ける。
階上に住んでいる赤ちゃんの言葉も秀逸。
どのくらい尾ひれが付いているのか、
それすなわち作者曰く5分の1なのだが、
そこに効かされたスパイスが芳ばしい。