爆発とそれから

研究室の忘年会が終わって風邪をひいて
もうずいぶん経つのに一向に治らないし、
いろいろ不安もあって、気弱になっている。
ああ、これは何かの罰が当たったのかも。


とどのつまり、何が表現したかったんだっけ?
と自問してみた。むだに考え続けた。
どういう流れであそこにたどり着いたのか。
そしたら、いろいろ思い当たる節があって、
どうしてあんなに怒れたのか得心が行った。
もちろん、芸としてやったわけではある…*1


よくよく考えたら、型にしてもそうだし、
言葉も借り物だし、どこが自分だったんだろう、
ということがよく分らなくなってしまった。

「見事だな。しかし小僧、自分の力で勝ったのではないぞ。
そのモビルスーツの性能のおかげだという事を忘れるな!*2

は、はい。ランバ・ラル殿。
そんな声が聞こえてくる気がした*3


いや、自分を捨てられた、ということの方に
意味を見出すべきなのかもしれない。
違うな。捨て切れない部分があったはず。
伝統芸能を引き合いに出して、「個性」
について語る養老さんの言葉を思い出した。

僕の同僚に多田さんという人がいて、免疫学の大先生ですけど
高校生のときからお能がすきで、鼓をうつんですよ


で、鼓を習いに行ったときの話をよくなさるんだけど
師匠んとこ行って、鼓をたたいてね、やるでしょ
師匠なにを言うか、なあんにもしない
一言、だめっていう


で、すごすご帰って、ふた月み月練習してって
また行ってぽんぽんやってるでしょ
また、だめって


一年か二年したら、突然、よしって言われた
っていうんですね


そうすると次の段階にいくんですよ


うたいがあったりうなるわけでしょ
師匠がうなってその通りうなってるわけです
その通りうなったつもりでもだめでしょ やっぱりだめ
そうこうして一年二年して次行くんですよ


これ、なにしてるかわかります?


三日や四日でそっくりまねできることの
どこが個性なんですか


10年20年師匠のやる通りやって
どうしても折り合わないところを個性って
いうんじゃないですか


養老孟司が語る「わかる」ということ』


真似しようったって、できないところが
師匠のすごいところでもあり、いや、うん。
ちょっと文脈が違うけど、まあそうだよね。
自分が修行不足っていうことは否めない。
勉強不足と言い換えた方がいいけど。


作品を公開してから、いろいろなところで
感想とか批評が書かれているのを見ていたら、
中には、心ないコメントとか曲解もあって、
ひどい誤解のされようとかを見つけてしまうと
ものすごく反論とか言い訳とかしたくなって、
ひどく悲しい心持ちにもなって、沈んだ。
ちょっと宗教っぽいコメントは正直怖い。
もちろん、好意的にとらえて、笑えたと
書いてくれる人もいて、素直にうれしい。


この言葉の重みがよくわかった。
自分がいっぱしの表現者たりえているとは
とうてい思えないけれど、それでも、どうあれ、
あの作品について言えば、もはや鑑賞者の側だけ
ではいられないのだという事実はのしかかる。
もう取り返しがつかないという強い不安は、
でもたぶん、自意識過剰気味なんだろうな。


はからずも、多くの人の笑いを誘えたのだ
としたらそんなに悪くもないんじゃないか。

笑いたいときは。

すべてはそこから始まったんだった。

*1:ということにしておかないとマズイじゃん(笑)

*2:ファーストガンダム 第19話

*3:熱のせいだ、ということにしたい。測ってないけど、熱はなさそうなんだよね(汗)