師の言に背いて

先日引用したオヴィディウスの言葉は、O'ReillyのHackシリーズの一冊、
Mind Performance Hacksを読んでて出てきた言葉で、読んだときに
はっとさせられたので書いた。


で、なんで何かがひっかかったのかを今一度考えてみれば、
言ってる内容は当たり前と言えば当たり前だし、正論ごもっともで、
こんなに昔から言われてきたことなんだ、という感慨もあるけど、
そういうことでは、たぶんなかった。


大昔から人は、コツコツやるというのは誰しもが苦手だった。
格言としていつまで経っても引用され続けて今に至っている、
ということは、多くの人がやっぱりできないからなんだと。
それで、他の人ができないから自分もできなくてもいいや、
と慰めにしてても仕方なくて、できない理由があるはずだ。


という話を書こうとしたけど、それはちょっと後回しにして。


Ovidよりも気になってた言葉が本当は他にあったんだけど、
書いても言い訳にしかならないから書くべきではないと思って
それよりカッコよさげなOvidの言葉を書いてみたんだけど。
(ちりも積もれば山となる、とさらっと日本語で書くより
同じ意味でもラテン語の方が見栄えがするだけなんだけど。
というか、「誰の」言葉かが遺ってるのはすごいと思う。
繰り返すけど、千里の道も一歩から、とか類似の格言は
いくらでもあるわけで、それだけ換言して手を変え品を変え、
何度でも言われて、当然ながら毎度毎度まさにその通りだと
膝を打って、言葉では理解しても実行できてないのが問題。)


今の状態を表すにはぴったりな気がするのでやっぱり書く。
György Buzsákiの本のまえがきの挿話なんだけど、

My dear mentor advised me in my student days,
"do not publish when you have only data
but when you have a novel idea."


自分の場合、
(いろいろやった解析方法が自分でまだ納得できないとか、
統計的なことをちゃんと言うにはまだNが足りなそうとか、
実験方法の細かな不備がありそうとか諸々の不満を除けば)
とりあえずデータはあるけど、"a novel idea"はなにか?
というところを突き詰められていないのが一番の問題だった。
主張したいことがあいまいで、今までしてきた発表は全部結局、
データを見せて後はごまかしてるだけだった気がした。


グラフとかは沢山あって、データがいっぱいある(ように見える)
けど、それでだから何が言えて、何を言いたいのかが不明。
というのは、ある意味、終わってる、よね。
(だから、こんな中途半端なところで終わらせないように、
これから始まらせなきゃいけないわけだ。)
極端な話、figureなんか1コあれば充分わけで、そこから
新しい1つのことを主張するだけでいいはずなんだけど、
そういう形にできないのは、どの側面を見せたいのか
分かっていないので、切り口が悪いわけだ・・・。


とかいうことを、書きかけで嫌気がさしたので
続きを書くのが面倒くさくなったので数日間、
ほったらかしてあった。けど、それも気持ち悪いので
もうちょっと書き足す。


ともかく、とりあえず、自分が夢想する言いたかったことと
自分のデータから確かに言えることを区別すべきで、
言えないとしたら、どういう話の流れなら言えるのか、
持って行き方を考えないと。


考えをまとめてみる。
実験をする前に、一番最初に知りたかったことは、
――そのことを忘れていたから、自分が何をしたかったのか
全然見えなくなっていたから、思い出さなくてはいけなくて、――
「見ようとすることでどれくらい見えるようになるのか?」
という単純なことで、ごくごくナイーブな予想としては
もちろん、見ようとした方が見えやすいに違いない!
という当たり前すぎるような仮説を立てていた(んだっけ。)
その次に、「見ようとする」というのは、どういうことか、
もっと具体的にしないといけなくて、能動的に探そうとする
ということだと思ったから、「能動性」というのを、
言わば、真に受けて、動けばいいんじゃないかと思った。
止まって探すよりも、積極的に動きまわって探す方が、
よりactiveだ、という素朴な発想なわけで、こう書いても
当たり前じゃないかそんなこと、と言われそうだ。


SfNアブストに書きたかったのはそういうことだった。
でも、ずっと「止まってる」ときの実験をやってないから
比較出来てないんだよね。やれよ、やればいいじゃん、
なんでやらないんだよ、と言われても反論できないけど、
上手く比較できるような止まってる方法が思いつかない。
ひとまずそのことを置いておくとして、実際のところ
実験をやってからフォーカスを移動して、別のことが
分かりそうじゃないか、ということで話を変更した。
だからややこしくなったわけだけど、0から1への
transientな状態遷移を知りたかたったことにしよう、
みたいに後付けで実験目的をでっち上げたところに
そもそもの混乱と困惑の種があったということか。
しかも、さらに、0→“0.5”→1という話とは別に、
Hit vs.False alarm/Time outという、これまた
違う対立軸が出てきて、だんだんわけが分からなく
なってしまった。

  1. 能動的/受動的探索(〜探索/利用?)
  2. “中間状態”への/からの遷移則
  3. 3条件間の比較
  4. 記憶業界の用語との対応
  5. 主観指標(〜メタ認知?)
  6. etc...


こうやってリストしてみて実感したけれど、
いろいろ言いたいことが目白押しなわけで、
たった1つの実験から風呂敷を広げすぎで
収拾がつかなくなってるような気がする。
しかも、結論付けられることというよりは、
「そう解釈したい」ということばかりで
希望的観測が強すぎる嫌いが否めないような。
でも、resultsまでで客観的な事実を述べて
discussionでいろいろな視点で多側面から
解釈するのは別に悪いことじゃないのかな。


自分がもともと興味を持ってたことというのと、
実験してから作り直した新しいストーリーがあって、
それらが実はズレてたということに自覚的になって
整理し直してまとめたらちょっとすっきりした。
ずっと知りたいことをちゃんと意識できなくて、
ほとんど分からなくなっていたから苦しかった。


だいぶ上で引いたBuzsákiの話にはまだ続きがあって、

If I followed his advice strictly,
I would perhaps still be writing my first paper and
this volume (="Rhythms of the Brain") would not exist.


György Buzsáki


人生のfirst paperは一生かけて描き続ければいいけど、
my first scientific paperはなるべく早く書き上げたい。