おまけのエビ

今日の天丼は特別にいつもよりエビが1尾多かった。
と聞かされながら食べているときはさして感慨が湧かず、
なにゆえそんなに気前がよいのか深い謎なのだけれど、
いつもよりごはんの上に敷き詰められている密度が違う
ということを漠然と感じとっただけに留まってしまい、
考え事をしながら急いで食べた後で、大いに悔やんだ。
エビのしっぽもちゃんと噛んで食べたのは覚えている。


子どもの頃に、親戚の一家と旅行に行ったことがあって、
僕の従兄弟が大好物だそうで、「ママ、もっとエビ!」
とおねだりした、という微笑ましいエピソードを
昔から何度となく聞かされて、そのたびに笑った。
今はすごく大人しい性格でちっとも想像できないから、
そのギャップに意外性があってうけるんだと思う。
僕も、それから当の従兄弟も小さかったから自分では
そんなこと覚えてないけど、大きな声でねだったんだろう
なあということや、それでたぶん、周りの大人から
エビの天ぷらを分けてもらえた情景が目に浮かぶ。
もう少し後になってから別の機会に、エビのしっぽを
僕がおいしそうに食べていたのを大人たちにからかわれて、
いやいや、エビはしっぽの部分が一番旨いやんなあ、
と伯父さんが代わりに力説してくれたのが嬉しかった。


エビで思い出したけど、古奈屋のエビ天カレーうどん
無性に食べたくなってきた。また、食べたいよう。
今一瞬でも、そんな組み合わせは邪道だと思った人、
悔い改めるべし。カレーうどんをあなどるなかれ。
しかもそこにぷりぷりのエビ天が乗るのが絶妙なのだ。
と豪語してみたが、まだ一度しか食べたことはない。
しかし、一度も食べたことがないというのに比べれば、
やはりそこには雲泥の差があると言わざるを得ない。


ところで、今回、何尾だったのか数え忘れちゃった
天丼のそれがゆえに数えられないエビという全体は、
むしろ、かえって強い印象を残してくれた気がする。
カリッと揚がったしっぽを噛みしめるときにだけ
訪れるものは身の美味しさとはまた別のもので、
しかし、身を食べながらしっぽの方に徐々に近付く
プロセスに固有な高揚感のようなものもたぶん重要で、
それらを踏まえた上での総体がつまりエビである。
エビの形而上学は兎も角、


と書いたところで力尽き、昨日は寝てしまったらしい。
とにかく、おまけのエビに事後的に時間差で心躍った。
ご飯を食べている最中かお腹が空いている時間以外に、
実際に食べてからだいぶ経ってのちの時間にあっても
それが殊更に意識されることがあるとは気付かなかった。
もし食べたときに味わい損っても、記憶で味わう術がある。
食はあまねく時間上に遍在する。または食い意地とも言う。