Science & Virtue

ひねもすうつらうつらとよく寝た。
いつの間にやら立春をすぎたからと言って、
いきなり春眠暁を覚えず、とはこれいかに。


探索的に実験をして予期せぬ結果を得たときに、
合目的的であったかのように見せかける技術、
というのが果たして美徳なんだろうか?


いろいろ試しているうちにたまたま見つかった
のが真実であったとしても、その過程は言わずに、
実験結果として得られたこと、わかったことが
straightforwardにつながってきたかのように
当初の目的をねつ造してでっち上げ美化する、
のが科学なんだということがだんだん分かってきて、
そういう科学のいやらしさ、もったいなさを
受け入れることが、scientificたれということの
真の意味なんじゃないかと勘ぐりだしてしまった。
すごくがっかりして。ちょっと、科学者がキライ。


もうすこし明るい見方を心がけるなら、
舞台裏は見せちゃだめなんだろうな。


大人な言い方をすれば、文脈化と呼ばれる操作
がまさにそのことを指しているんだろうか。
あるいは、客観視とかdetachmentとか。
でも、いかに「淡々と語る」ということが
むずかしいことなのかという事実が厳しい。
情熱がなければ科学は進まないというのに、
認知的温度は下げて、自己を抑制して
嫌みがない程度にストイックになるには、
自信もそうだけど、余裕がないとできない。
たぶん、全力を出しながらも余裕、みたいな
虎視眈々と虚心坦懐ぐらいに相矛盾したのを
アウフヘーベンしちゃったような状態が
あればいいのかな。


おだやかで冷静な危険分子っていうか、
危険じゃないけど安全でもなくてやっぱり
急進的で革新的だけど意外に沈着でもあり
綱渡りではなく悠々と危険な賭けに出て、
負けないことを確信してる豪快な繊細さ。
合法活動としての完全犯罪者、たとえば。


科学者が科学してるときは主観があってよくて、
うれしかったりくやしかったり、涙したり、
科学してる主体が人間だってことを忘れない。
そうした上で、そのことをもう一度忘れて、
本質だけをくみ上げて客観的に議論するよう
心がけ、深いおもしろさを共有できたときに
ふたたび人間に戻ってくればいいのだと思う。


人間になったりならなかったりまた戻ってきたり、
そういう活動が科学ということのような気がする。