わが里に大雪落れり

この前、たまたまテレビをつけたら万葉集の番組をやってた。
そこで歌人小島ゆかりさんがこんな歌を紹介されていた。


天武天皇が妻の一人である藤原夫人(ふじわらのぶにん)に送った歌、

吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後
(わがさとに おほゆきふれり おほはらの ふりにしさとに ふらまくはのち)


わが里に 大雪落れり 大原の 古りにし里に 落らまくは後

わたしのいる里に大雪が降ったんだぞ。どうだ、すごいだろう?
あなたのいる大原の古びた里に雪が降るのはまだ先だろうなあ。


自慢げに送ったこの歌に対する夫人の返歌は、

吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
(わがをかの おかみにいひて ふらしめし ゆきのくだけし そこにちりけむ)


わが岡の おかみに言ひて 落らしめし 雪のくだけし そこにちりけむ

なにをおっしゃるんですか。わたくしの住む岡の
龍神に頼んで降らせた雪のくだけたかけらのほんの一部が
あなたのところにも飛び散っただけのことですよ。


こんなに洒落た切り返しができるなんて、素敵だね。
でも実は、二人のそれぞれいた場所はそう離れていなくて、
明日香浄御原と夫人のいた大原(現在の明日香村小原)
の間は、たった1キロくらいの距離だったそうだ。


こっちではすごい雪が降ったよ〜そっちはどう?まだかな。
なに言ってるの、もちろん降ったに決まってるじゃない。


同じ雪を見てるはずなのだけれど、直接そう詠む
のではなくて茶目っ気たっぷりに掛け合いを楽しむ。
現代で言うところのメールの感覚に近いかもしれない
という解説だった。みそひともじに込める想い。
こんなに気の利いたメールはそうそう打てない。


それから、万葉仮名という言葉は知っていたけれど、
本来の表記を調べてみてからやっと、実際に
すべてに漢字を当てた表現に新鮮な驚きを感じた。
しかも、もちろんもともとルビが振ってあるわけもなく、
この見た目がちがちの漢文をなんとか読み下した人が
確実に存在したはずで、自然な和歌になるように
解読したであろうその作業は、結構すごいと思う。


万葉集にはいまだに読み方が見当つかない歌もあって、
たとえば歌の名手である額田王にもそういう歌がある。
それはいままで千年以上にわたって名うての学者達が
果敢に挑戦しても果たせなかった叶わぬ夢なのであって、
今後も決して読み解かれることはないんじゃないか、
リンボウ先生がその番組でコメントされていた。


かなり話は飛ぶけどだいぶ前に読んだ本で、
昔のこと、たとえば縄文時代のこととか
遺されたわずかななものだけを頼りにそこから
ものの本質を見抜くためになすべきことは、
想像をたくましゅうすることが大事なんや、
ということを藤森照信さんが、たぶん
天下無双の建築学入門 (ちくま新書)
の中でおっしゃってたのが印象的だった。
というのを突然思い出した。


(たとえ)わからなくても想像を拡げ
たくましゅうする。そして、精しくなる。
分からないから即あきらめるのだけは、
なんとしてもやめないといかんぞ。
調べても調べても一向に分からないことは、
まだ誰にも分かったためしがなかったか、
むしろ誰もまだやってないのかもしれず、
それなら自分が明らかにするという気概を
強く強く持ち続ければ原動力にできる。


そう言えば、雪が落ったのひさしぶり。
降るというより、落ちきたるかんじ。
ぼたん雪でやや重そうなのにしんしんと。