好きになるかどうかは選べない

中世ヨーロッパにおける商人の話術と商機について
考えていたら、いつのまにか外が明るくなっていた。


やらなきゃいけないことがあるせいで寝られないのと
どうしてもやりたいことがあって寝られないのとは
似て非なるものであり、違いをよく知るべきだ。
つまり、どちらもある時点からハイになり得るが、
精神的救済措置としてのハイと陶酔によるハイは
区別しておいた方がいいような気がする。


後から疲労感の残るものと、昂揚感の残るもの
という分け方とも必ずしも一致しないだろうし、
原理的に弁別できるかどうかも不明だけれど。
充足感という同じ言葉で一括りにされたりして
結果的に同じ状態になっていたのだとしても、
追い詰められてそこに至るのと自分で選んで
進んで飛び込むのとでは、近付き方が違う。


やりたいことというのはやらされてる感がない
ということに尽きる。もう一度考えてもみよ。


この世界に投げ込まれたと感じるのもいいが、
投げ、入れ込み先としての世界と対峙するのも。
自分がやらせだなんて信じたくもないこと多し。
その場合、好きな場所にしかいないとすると
世界が狭いと感じれば、無理に好きになるより
ためが足りないのかもしれないからこらえて、
持満の末にもういちど向き合うことを選べば
同じ接し方はできなくなっているはずだから
その頃には世界というより自分が広がって。


だいたい、好きになるというのは、
好きになることを選ぶことではない。