文芸昨今、脇にも逸れつつ

文芸誌の発売日は毎月7日らしい。というのは臆見で、
群像と文學界については確かにそうであること知った。
保坂さんが11月から群像に「未明の闘争」という連載を始めて、
さらに今度は1月から文學界に「カフカ式練習帳」という
新連載を開始するというから、急いで読みに行った。


立ち読みというのはある種、文化的非合法活動の
最たるものだが、と言ってもあいにく法には疎いので、
気分的、冗談的に非合法と呼んでいるだけだけれど、
店主がはたきを持って徹底抗戦に来そうな雰囲気の
こぢんまりした書店がいつの間にか大型チェーン店に
変わっていたりして、意味もなく本を並べ替えたり、
探し物を装って足もとの棚を引き出してみたり、
あからさまな立ち読み牽制と思しき行動に合うことも
そう言えば最近全くなくなったような気がする。


店内の検索機で探さないと場所が見つからないくらい
大きな書店で、バイトの店員がせっせと新刊本を
並べている横で、悠々と立ち読み客が読書を楽しむ。
読み切れなかったり、他の本を買って帰れば結果的に
お店が損をするわけではないのでいいのかな。
きちんと所場代を払えば、目くじらたてずとも。
背中に店員の視線を感じながら水面下で引き際を
計算しながらの緊張感ある立ち読みはどこへ行った。
すこし期待して、ときどき町の小さな本屋に入る。


ここまで読んで、件の文芸誌を立ち読みしたのか、
と思われた方には悪いけれど、今回はちがう。
「読みに行った」というのはどういうことかと言えば、
図書館に赴いたのであって本屋さんに、ではない。
立ち読みの誘惑と魅力はともかく、やはりゆっくり
座って読みたいものもあるのであって、仕方がない。
ちなみに、買うという選択肢がないのは節約というより、
買うと安心して読まない、他の掲載作を読む気にならない、
かもしくは気に入らない、一度買うと本は捨てられない、
買うなら連載をまとめた一冊の本として手に入れたい、
などのことを考えるとどうしても食指が動かない。


今、触手が動かないと打ち間違えてしまって、
(そういう表現もあるけれど、意味がちがう)、
自分はイソギンチャクかと思った。イソギンチャクは
魚には有効だけれど、人間には利かない毒を持つ。
沖縄の海にはニモ、鮮やかなカクレクマノミがいた。


1月号の「未明の闘争」は、いまいちだった。
好きな作家にいきなりこんな大辛な言葉を吐いて
心苦しいことこの上ないのだけれど、残念ながら、
同時期に書かれたかどうかはわからないけれど、
新連載の方に力をそがれたんじゃないかと邪推する。
連載三回目にして、わざとか話が進まなくなって、
ややくどい感じがしてきて、だいたい話が暗い。
読者側のメンタリティの影響も大きいかも。


それも当然で、確信犯的に敢えてそうしてる。
現実の猫の死のやり切れなさ、乗り超えられなさ、
を小説の主人公における同僚の死の受け入れがたさ
として切々と書き続けるのだから許すべきか。
だから突然話が止まって進まなくなっても
実に正しいのかもしれないけれど、どこまで
やるつもりか、これからどこへ行くのか。
連載というのは、作家が悩みながら書いている
その時間が、待ちながら読んでいる時間とたぶん
ほぼ同時で一緒に時間が流れていくのがいい。


同じ群像1月号で保坂さんより大きな見出しで、
(保坂さんは連載3回目だから目次が小さい)、
青山七恵が初めて連載を持つという「わたしの彼氏」
というのが載ってて、登場人物の名前が、
山崎ナオコーラの作品に出てきそうな変な名前だな
と思ったら、一部はあだ名の設定で、そりゃそうか。
鮎太郎(これは本名)はいきなりリリー(あだ名)
にフラれる。テンテン(あだ名)は鮎太郎に好意を寄せ、
リリーのことをつま先立ち子とまた違う名で呼ぶ。


鮎太郎には姉が三人いて、姉弟はみな容姿端麗、
上の二人の姉は既婚で、話がしたくなると次女
の所に行く。もちろん次女が変なことを言い出す。
鮎太郎と大学仲間の青春ものかと期待したのに
(鮎太郎は最初、もっと幼い年齢だと思ったのに
大学生だと知ったときは正直かなり驚いた。)
どうもそういう方向性ではなく、でも気になる。
「未明の闘争」より、こっちの続きが読みたい。


山崎ナオコーラと言えば、12月号の新潮に
「この世は二人組ではできあがらない」が掲載。
知らなかったけれど、各文芸誌の12月号は
次の芥川賞選考候補が選ばれる期間の最後なので、
どの雑誌も勢い駆け込み掲載が多いのだと言う。
そんなものはどこ吹く風、山崎さんはこの作品で
「完全に力を出し尽くし」たと言い切ってる。


山崎ナオコーラファンとしては読まずにはいられない。
いつからファンになったかはともかく、実際にも
ほぼすべての作品を読んでいる珍しい作家の一人だ。
若手(いや、中堅?)でかつ同時代の作家なればこそ。


それでこの「この世は二人組では〜」だけれど、
ナオコーラ節がよく利いてて、最高傑作と言うだけある。
どこかの評論家が、山崎さんは理解しがたい微妙な関係を
描くのが上手い、と褒めていた(けなしてはいないと思う)
けれど、今回の作品は自伝風の体裁を取りながらも、
やはり、理解しがたい関係性が出てきて、絶妙。
山崎さんは逆境をバネに伸びるタイプが好きなのかな。
これから第二期、どう出るか、刮目して待て。


泉鏡花賞を受賞した千早茜の「魚神(いおがみ)」は、
ベテランがもらうことが多いのに新人が受賞と話題で、
気になるので手には取ったけれど、読めず、無念。
花村萬月が対談して、かなり推していたので、
自分が好きなジャンルではあり得ないだろうな
とうすうす予想はしたけれど、まさにその通り。


最近読んだ中で一番しっくり来たのは、
池澤夏樹の「スティル・ライフ」。
ずいぶん昔、いろいろな人の芥川賞受賞作を
読むというのがマイブームの時期があったけれど、
そのときは全然視野に入っていなかった。
世界文学全集を編纂している人だとは知ってて、
でも小説を読んだことはなかったので初めて。
たまたまテレビのドキュメンタリーで
結構いいこと言う髭のおじさんだなと思って、
そこで引用されてたのがこの本の冒頭。


なにか琴線に触れる言い回しがぽつぽつあって、
それとは別に、この書き方ができる人は
普通の小説家には絶対にいないと思う記述が
あって、ある匂いがすると思っていたら、
後になって調べたら、物理の出身だった。
でもそれが重要なのではないとも思う。
物理をやめて世界中を旅してよく読んだ、
極端に簡略化しすぎではあるだろうけれど、
そうして池澤夏樹ができあがったのだろう。
もっと読みたい。好きな作家に加えた。


1月号の文學界から新連載の「カフカ式練習帳」は、
(忘れてるかもしれないから念のため、保坂作品。)
未完の小説の断片を多く遺したカフカに習い、
書けるところまで書ける長さで書きためた断片を
繋げていく実験的な試みで、支離滅裂な感じ
が最初はしたけれど、読んでいるとだんだん
いろいろな短い小説の一節が次々続いてるだけで
扱ってる内容や話もちぐはぐなのに、なんとなく
連続性が出てくるような錯覚が生まれてきて、
これはこれで作品として成立してる気がしてきた。
それは作者の意識が通底で流れているからで、
なんの意図も脈絡もなく無意味な文章の羅列
ではあり得ないから。


猫に襲われたネズミの屍体の処理の場面がある。
袋に手を入れて掴んですぐに袋をひっくり返して、
口を結んでゴミとして捨てるのが一番簡単だけど、
一瞬でも掴むときの感触はずっと残るだろうから、
割り箸でつまんだ方がいい、というような淡々
とした記述があって、猫を飼っている人なら
そういう経験をしたことがあるかもしれけれど、
猫の死(も書かれる)とネズミの死の対比が怖い。
捨てるのは憚られたので、最終的にネズミは
庭の隅に埋葬されることになり、ほっとした。


話が進むと、(この作品に限って、話とか、
それが進むという表現は似つかわしくないが)、
一貫したストーリーが展開し始めてきて、
一見、普通の小説の体裁を取り始めてくる。
つまり、段落が変わっても突然別の話に
飛ばないし、同じ登場人物が出続けるし、
いや、最初から登場はしてたとしても、
明らかに今までの他の登場人/物描写と
ウェイトが違う扱い方がされている。
今後も登場すると期待させる書き方で。
そうか、人物の扱いだけ特別なのか。
気になる筋というか展開が生まれつつあり、
それが裏切られるか続くか来月を待つ。