どう見えているかが自分には見えないもどかしさを超えて

一年に一回だけ変なキャラクターになっても
許されるというのはなかなかいい制度だと思う。
どれくらい変でおかしいのか自分ではさっぱり
わからないのが何とも言えず悔しいけれど、
(そもそも自分の動きすら見えない!)
かなりギャップがあって、それが意外らしい。
ただし、本音を言えばたぶん普段の方が
自分にとっては変なキャラクターなのであって、
どちらかと言えば、あの奇矯な瞬間の方がむしろ
自分の素に近いような気さえする。


恥とか恥ずかしい、というのは何なんだろう。
守っているもの(一体何のために?)を解き放って
それを超えたところに、たとえば笑いがある。
笑うことが快感であるのとおそらく同様に、
笑われることも快感であるのはなぜだろう。


忘年会では普段なかなか会えない先輩と
いろいろお話ができたのが楽しかった。
例年、食い意地がはりすぎて食べ過ぎるので、
美味しそうなものだけを少しずつ味わって、
(もちろん全部美味しそうだから逡巡する)、
なかなか飲めないお酒を身体に沁みこませて、
ほろ酔いでとてもいい気分で愉快だった。


宴がお開きになって休む間もほとんどなく、
すぐに次のゼミで、しかも担当だった。
なんとなく面白そうではあるけれど、
全く知らない解析手法だったりして、
説明できそうな気配がちっともしない
challengingな論文を選んでしまった。


発表中はちゃんと伝わってる感触がなかなか
掴めなかったけれど、だんだん質問が出始めて、
ゼミが終わってからも、質問が途切れなくなり、
というよりは、次から次から疑問が沸いてきて
何人かで一緒に考えながら、分かった人が
説明して、また違う人が突っ込んだ質問をして、
また考えて、を繰り返して議論しているうちに
やっとこの論文でやっていることの意味と、
そのすごさがだんだん実感できてきた。
発表とその後の議論でかなり深いレベルで
問題意識を共有できたのがうれしかったし、
難しそうだからと敬遠しなくて本当によかった。


新しいことができるというのを目の当たりにして、
まだまだできることがあるような気がしてきて、
可能性の広がりへの期待で胸がふくらんだ。