親愛なるエトムント様

前景は背景なしにはありえない。
現出しない面がなくては現出する面もありえない。
時間意識の統一性の場合もそれと同じである――
〔過去を想起する場合には〕再生された持続が前景をなす。
〔だが〕配列する志向が、〔同時に〕背景を、
すなわち時間的背景を、われわれに意識させる。


つまり、ここには次のような類比があるのである。
すなわち、空間的事物の場合には、周囲空間
および空間世界に配列する〔意識の〕働き、他方で、
それ自身の前景と背景とを伴った空間的事物そのもの。


時間的事物の場合には、
時間形式および時間世界に配列する〔意識の〕働き、
他方で、時間的事物そのものと、生き生きした今を軸にして
〔刻々と〕変わっていく、その事物の〔時間的〕位置づけ。

  (『内的時間意識の現象学フッサールより)


全然わかりません、フッサール先生。
いったい何をおっしゃっているのですか?
私は、哲学者には、なれそうもありません。


ひさしぶりに『脳とクオリア』を読んでいた。
読み終わるまでに、半年くらいかかった。
前の方の議論はほとんど忘れかけている。
でも読んでいる時間にしかないものがある。


もっとぶっとんだ理論があってもいい、
という気概がひしひし伝わってくる。
仮説だらけの本と言えば聞こえは悪いが、
それだけ野心作ということでもある。
理論家の本領発揮というところだろう。
この頃は、まだ物理物理してたんだな、
というのが読んでてちょっと嬉しかった。
と同時に、物理に限界を感じてるのも、
やっぱり否定できない事実なんだろう。


物質である脳にどうして心が宿るのか、
という心脳問題を考える方法論には、
いろいろやり方があるのだと思う。
心の方から攻めようとする人もあれば、
物質の方から攻めようとする人もある。


たとえば、物理の人に言わせれば、
物質である、ってどういう意味なのか?
物質が何なのか(すら)分かっていないから、
まずそこを徹底的に追及しないことには・・・、
と考えるかもしれない。


去年の暮れ、蕎麦を食べながら、
心脳問題以外は俺以外でもできるから、
俺は心脳問題をやるんだ、と心強い
しんいち君とあれこれ議論をして、別れ際、
心脳問題と弦理論のどちらが面白い?
と問われて、迷った末に、つい、
弦理論かな、と答えてしまった。


その後、ひどく気まずくなって。
そう言い切ったお前はエライよ、
とかよく分からないことを言われ、
終電も迫っていたのでそのまま別れ。
それから今までずっと違和感があり、
わだかまりがあるようで気持ち悪い。


最初はそんなこと言わなきゃよかった、
という後悔ばかりが強かったのだが、
冷静になってみると、根本的に、
問題の立て方が間違っていたのではないか、
という気が少しずつして来た。
わたしと仕事とどちらを選ぶの?
と質問する女性のような感じ。


あたかも二者択一かのように装い、
こっそり論理のすり替えをしてない?
なぜ一方だけを選ばなければならず、
排他的であらねばならぬ理由はある?
そう思うと、理不尽な問いのような
気がしてくることがなくもない。


とは言え、本当のところ、たぶん、
心脳問題のおもしろさが、いまいち
ちゃんと分かっていないのも事実。
背景が足りなさ過ぎるのだろう。
怠慢、やる気の問題という他ない。


自分の世界観が凝り固まっている
可能性に気付き、目を向ける瞬間は、
自己批評性の萌芽かもしれない。
自覚的であるだけまだましだという
慰めは的外れではないかもしれない。
が、あいかわらず自分を棚に上げて、
周りの状況や他者の批判をしていた
自分にうんざりしてしまう。


語れる言葉を持つかどうか、
で判断される事柄は何だろう?


語り得ぬものについては沈黙せねばならない
という意味は、知らないことに対しては
知らん振りを決め込むことではないはず。
背景となる知識が圧倒的に足りないことを
逆手にとって無知の鎧をしっかり着込むのは、
どう考えても、大人気ないとしか言えない。


語る言葉を持たないのは、
知ろうともしないとさえ言えるような、
厚すぎる無知の壁に阻まれていないと、
どうして言えよう。
知らないので語れないし、もちろん、
おもしろさも分からない、という流れは、
これ以上ない、当然の理ではないか。


なんだ、勉強が足りないだけじゃないか!
とやっと気が付いたのかい?