Agencyと手を動かして書くこと

先日のD論公聴会は朝早くから始まり、
この日は絶対に寝過ごしたくはない、
あれれ、起きたらもう昼になってるよ、
みたいなことには絶対したくなくて、
右の耳から20cmくらいの近距離に
目覚ましのアラームを最大音量にして、
念を入れてセットできる最大回数の
5回も時間差で鳴らすように設定して、
満を持して寝たら、意気込みが通じてか、
実際にアラームが鳴る前に目が覚めた。


部屋に着いたのは開始25分前で、
電気が点いていないので不安になり、
それでも扉に張ってある予定表に
見知った名前が並んでいるのを確認、
やはりこの部屋で正しいと確信する。
しばらくして、事務の人だかが、
プロジェクタのセッティングなど
前の方で始めたので、この部屋が
確かにもうすぐ使われることを
やっと実感できたので、安心して、
読みかけだった本を開いて待つ。


5分前くらいを切ったところで、
ようやく主査のボスが入ってきて、
すぐに、何か書くもの持ってない?
と探しているようなので、となりで、
先輩も同じようにペンを取り出そうと
探していたけれど、僕の方がすこしだけ
早く取り出せたのでそれを手渡した。
僕の持っている中で一番書き味のよい
ボールペンは、赤と黒の2色のペンで、
背面にOLYMPUSと印刷されているので、
去年学会に参加したときに企業主催の
ランチョンセミナーで豪華なお弁当を
手に入れたときに、ついでにもらった
資料の袋に入っていたものだと思う。
それが意外と使い心地が良いので、
なかなかいいモノをくれたんだな、
と僕の中で企業イメージはアップした
けれども、僕がこの企業の製品などに
いつかお世話になることはたぶんない。


ボスが乱暴に黒板に鈴の鳴らし方を書き、
高らかに開始を宣言して発表が始まると、
なにやらボスはものすごい勢いでもって、
ノートだか資料だかに書き込み始めて、
何を書いているのか気になるが、もちろん
ずっと前の方に座っているので見えない。
けれども、それは確かにとても重要なことを
たくさんメモして書きまくっているのだろう
と漠然と想像して、やはり相当気になる。
ノートなどを開いたり、ペンを持ったり、
何もせずに話に集中して聞き入った方が、
たくさん聞き取れるような気がずっとして、
いつからかそういうスタイルで聞くように
自分はなっていたのだが、よく思い返すと、
意外と内容が頭に入っていないではないか、
という疑問が今になって頭をもたげてきた。


去年の夏の前くらいには、たとえば、
先ほどのペンは透明なブルーでカッコいい
のだが、それをもらった、京都の学会では、
何でもかんでも聞こえたことをノートに
書きなぐって、面白いとか面白くないという
判断をする前にもうとりあえず何か書いて、
書いて自分のノートに留めておくことが、
今できることだということを、無意識に
ちゃんと分かっていたように思えてならない。
それは、後になってノートを見返して、
字が汚くて読めないとかそういうレベルでなく、
書いてあることの意味が全然分からなくて、
分からずにメモしていたということに気付き、
それでも、きっとメモすることには何かしら
肯定的な意味が潜んでいたという予感はあり、
たとえ理解できないことを聞くがままに
書き付けているだけで、たとえ分からなくても、
そのことがなぜかとても楽しくて面白かった。


いつしか、分からないのは、書いてばかりで、
書くのを先にするのではなく、先に分かってから
それを書き留めなければいけないような気がして、
書くことはやめて、聞くことにもっと集中して、
リソースをそちらに割り振ればもっとわかるかも
しれないと勝手に思って、書かなくなった頃から、
たぶん、何も分からなくなってきて、書かないので、
手も覚えていないので、後で思い出せなくもなり、
分からなかったという印象だけがずっとぐずぐず
残るようになってしまったのではないだろうか。
書き残された汚いノートがあれば、それだけで、
何か書いて分かろうとしていた痕跡があるのに、
きれいなままのノートだけでは振り返れやしない。


先程、手も覚えていないとさらりと書いたけれど、
手が書いたことを覚えているか否か、というのは、
比喩ではなくて、実際に自分の手が動いて何かを
書き付けたかどうか、ということは意外と重要で、
もう少し主観的に、自分の手を動かして書いたか
どうかと言い換えた方が、はっきりしてくるだろう。
手を動かして書くことには、非宣言記憶としての
手続き記憶としての意味合いがある、ということを
あえて持ち出すまでもなく、自分で書いたノートには、
たとえば、もっとずっと整理されて綺麗に印刷された
教科書などと比べたときに、見た目はともかくとして、
分かりやすさの度合いが、全然比べ物にはならない。
あるいは、受身の体勢で聞き流すよりは、受動的に
自分の手を動かしてメモしようとする態度の方が、
主体性という観点において、そのものごとに対する
自分の関わり具合とでも呼ぶべきものの割合が、
ずいぶん違ってくるのではないかと推測できる。


また、分かるか分からないか、という区分は、
ある意味で後付けの解釈という側面もきっとあり、
そうすると、分かってからメモしようとする態度は、
もしかしたら、根本的に間違いである可能性も、
なきにしもあらず、ということにもなりかねない。
たとえば、自分が卒論を書いているときには、
大嫌いな助手さんのアドバイスではあるけれど、
それなりに妥当な方法のようにも思えたので、
まずは手書きで書いてみるという方法を取って、
少しずつ書きながら、とりあえず書いてみて、
ノートに限らず、その辺の裏紙などの隅にも、
そこかしこに書いて書いて書きまくっていて、
ある部分ではやはり分からなくて、ただただ
書き写してるだけのようなところもあって、
どういう意味なのかさっぱり分からないのに、
不思議なことに、書いてるだけで楽しくて、
さらに、書いているうちに、分かったつもり
にさえなってくることがあったような気がして、
書くことの効用は、そのときは自覚的でなくとも
このように後から思い出したときに、じんじん
利いてくるような、ゆっくりしたものだろう。


なぜ手書きで書くのか、ということについては、
きっともっと突っ込んだ議論もあるだろうが、
たとえば、キーボードでメモを取ることと、
いったい何が違って何が同じなのかであるとか、
そういうことは、とりあえず今は置いておく。
そんなことよりも、猛然と手を動かしては、
何かを書き留めるという行為を目の当たりにして、
だいぶたって今頃になって、はっとさせられて、
いろいろ考えたり思い出したりしてしまったけれど、
ちょうど自分が手をあまり動かさなくなった時分と、
何が分かって分からないか、何が面白いかなどが
よく分からなくなってきた時分とが、比べると、
同じ頃合だったようなことに気が付いてみると、
それらの関係性がなんとなくあり得ることかも、
と勝手に結びつけて、ちょっと何かが分かった
ような気がしてきた、ということを書きたかった。