リンゴがネコを食べる

先輩たちの追い込みで、連日、遅くまで研究所で
予行をやったり議論をしたり、雑談したり、
内容の濃い日が続いた。


ハチの話。同じかどうかを学習できるけれど、
選択が100%にはならず、75%くらいで
頭打ちになるという話。知識利用と探索。
(M.V.Srinivasan, et al. 2001)


選択肢が複数あったら、すべての可能性を
試してみたい、という傾向はあるのかどうか。
A、B2つボタンがあって、5回好きな方を押していい、
と言ったらどう押すか、知り合いに聞いてみたら、
一人は、ABABAB、もう一人は、ABBBBと。
全部同じ方を押すのは考えなかった?と聞くと、
それはなんか気持ち悪い、とのことだった。
なぜ「気持ち悪い」のか、興味深い問題。


AとBのボタンを適当に押して、報酬量を表すバーの表示が
できるだけ長く伸びるようにする課題の話をした。


たとえば、最初Aを押し続けると、バーが伸び続けるので、
多くの人がAを押し続ける。すると、どこかで今度は
バーが短くなり始めるようにコントロールされている。
そして、ひとたび減り始めると、これはやばい、と
焦った人はBを押し始め、するとまたバーが伸びるが、
押し続けると、どこかでまた減り出してしまう。


実は、一度減り初めても、そこで選択を変えずに、
図太く押し続けるのが正解で、そうすると、
バーの長さがMaxになるところにたどり着ける。
それで、押し続ける人と、途中で選択を変える人で、
リスキー派と保守派に、だいたい半々で分かれる。
ドーパミン系のモデルで説明できるらしい。
(Egelman, D.M., Person, C., Montague, P.R. (1998).
A computational role for dopamine delivery in human decision-making.
Journal of Cognitive Neuroscience. 10(5): 623-630.)


遇有性と共時性は同じだ、とToruさんから聞く。
そのときは腑に落ちなかったが、後で聞き直したら、
因果的に関係ないはずの2つのことが同時に起こるのが
共時性で、もしその片割れが脳の中にあったとすると、
それがまさに遇有性のことなんだ、と説明される。


遇有性とは、起こるかもしれないし、起こらないかもしれないことで、
いつか起こるというようなニュアンスがあるとAyakoさんから聞く。
例として、富士山が爆発するかもしれないし、しないかもしれない。


「富士山が」、と規定したときに、その時点で
すでに決まってしまうことがあるのではないか。
そうやって決められないことというものが、
本当に予期できないものなのではないか?
と指摘したら、omakeiさんに、
それは郡司さん的なセンスだと言われた。


絶対に起こり得ないことはどんなことか?
言語はなんの脈絡もないことを結び付けられる。
ということの例として、こんな例を挙げられた。

リンゴがネコを食べる。

これの絵を描くことはできるし、それは、
シュールレアリスムだ。
現代アートとの関連も聞いた気がする。


最近、なぜ脳科学者が芸術評論をできるのか、
ということで、気付いたことがある。
脳科学に限らず、認知科学系では、
論文を書くときに、実験結果をまとめた後、
discussionのところで、解釈を加える。
まさにここでやっていることが、
アートを解釈することと同じだと思う。


科学的な事実(データ) → 解釈
 芸術作品        → 解釈


同じ解釈という言葉を用いているだけでなく、
営みとしても、behavioralに区別できないだろう。
もしくは、
「誰が」それを見て、感じて、そこからまた表現する、
という流れにおいて、人間が解釈をし、言葉にする、
つまり、人間というフィルターを通ることになる。


そういうのが、少し前まで、ソフトすぎて
気持ち悪いような気がしていたところがあるけれど、
最近、そういうののおもしろさが分かりかけて来た
ような気がしていて、楽しさに気付いて来たのかな。