折り畳み傘の袋

先日、雨降りが続いたときのこと。
折り畳み傘でしのげた前日とは違い、
この日は、折り畳むことのできない、
ふつうの大きな傘を差して出かけた。


電車に乗ろうと改札の方に歩きかけたら、
視界の右端で何かが、ぽとりと落ちた。
ふと見やると、折り畳み傘の袋だった。
さらに右をたどると、まさに傘を差して
歩き出そうとしている男の子がいる。


おそらく、持ち主に間違いなかった。
そこで、これ、落とされましたよ、
と声をかけ、落し物を渡してあげた。
あ、どうも、と心持ち恐縮しながら
受け取ってもらえて、ほっとした。


しとしと降る、どんより薄暗さは去り、
午後になると、にわかにすっきり晴れて、
日差しがまぶしいくらいまで回復した。
夕方、もうすっかり無用の物となった
傘をぶんぶん勢いよく振りながら帰った。


家に帰ると、昨日使った折り畳み傘が
午後のあいだ、干してあったようで、
さっぱり乾いていたので畳むことにした。
そして、仕舞おうとして、入れ物の袋を
探したけれどなかなか見つからない。


コートやらリュックやらのポケット等、
隅から隅まで可能性のありそうな所は
片っ端から探し回ってもどこにもない。
昨日、傘を差そうとした瞬間に無意識、
どこかに無造作に突っ込んだはずなのに。
ぽろりと落ちたとしか考えられなかった。


そこで、はっとして驚くことに気付いた。
朝、落とした折り畳み傘の袋を男の子に
手渡した代わりに自分のがなくなったと。
昨日は落としたことに気付かなかったのに、
今日は彼が落としたことに気が付いたのだ。


こういう現象を共時性と言うのだと思った。
当然ながら、因果的には何の繋がりもない。
しかし、ときを同じうして、事は起こった。
まったくもって予期できなかったのだけれど、
起こってみれば、それらは陰ながら密かに
連動していたとしか思えない。不思議だ。


初めてこの言葉の意味を強く実感し、
納得したところで、この話の後日談。
なぜか傘の袋は、見つかってしまった。
その次の日あたりに、リュックの中で、
ファイルの間にでも挟まっていたものが、
気が付いたら、底の方に落ちていた。


傘の袋はなくなってなどいなかった。
この事実を知って、共時性を感じたときの
神秘的な繋がりのほのかな存在の予感は、
ぷいとどこかに行ってしまうものだろうか。
つまり、共時性というある後付けの解釈が、
再後付けの理解によって打ち消されるか。


その時点では、確かに袋はなくなっていた。
すぐ前に、落ちた袋を渡したことも確実だ。
もちろん全く何の関係もない別々の袋なのに、
それらの袋の生成消滅は、時期が近かった。
外的に起こったことはそれで尽きている。


しかし、内観はそれだけではないと判断した。
昨日は落としたことに気付かなかった、ので、
今日は彼が落としたことに気が付けたのだ。
そこには、論理的な推論を超えたものがある。
因果律など無視した暴挙が、そこにはある。


思考の飛躍は時に、越えてはならぬものまで
やすやす越えて見せてくれるのかもしれない。
その軌跡が美しければ、それもまたよし。
ここで真実であるかどうかは二の次である。
人は科学的に説明されるように生きていない。
それを科学的に説明することは、また別問題。


袋がなくなったのなら、ビニールの袋にでも
入れて使えばいいじゃない、些細なことよ、
と母は言った。本当に、些細なことだ。
でも袋が見つかったことで、折り畳み傘は、
また旧の鞘に収まり、次の雨を待つ。