初回はいきなり大上段

に構えて、「生物学とは」 から始まった。

生物学 = 生物の学問 であり、英語だと、
\begin{eqnarray}biology &=& bios + logos\\&=& \beta\iota o \varsigma + \lambda\acute{o}\gamma o\varsigma\end{eqnarray}
ギリシア語の 生物 + 学問・言葉 に由来する。

しかし、ギリシア語にはbiosの他にzoeという語があり、
\left\{bios \,\,\,\,\, \beta\iota o \varsigma\\ zoe\,\,\,\, \,\,\,\zeta\omega\eta\right
 \beta\iota o \varsigma(ビオス)は個別の形をもったもの、
たとえば、ネコ、イヌ、私・・・、
 \zeta\omega\eta(ゾーエー)は普通、生命それ自身、
というように、ギリシア人はちゃんと使い分けていた。

(ちなみに、 zoeはzooやzoologyの語源になった。)


きちんと、ビオスとゾーエーについて考えなければならない。
(このあたりのことは、木村敏とも話したことだとか。)
そこで、生物科学ではなく、生命科学(life science)
という言い方をする。
科学たりうるためには、定義され、普遍的でなければならないが、

生命の特徴は、多様性であり、それは定義できない、
してはいけない、むしろ、しない方がよいもの。

定義できる典型がないのに、普遍を探さなければならない、
というのは矛盾である。


確かに、分子生物学は成功しているのだけれど、
二重らせんを見つけたワトソンとクリックの
クリックは物理の人で、DNAでバサバサバサっと
切ってしまったからすっきりしただけのこと。
分子とかの形ではなく、生々しい生物を扱う
ことも重要であるはず。


本川先生は、物理帝国主義バカの壁と言い、
彼らは単純バカだから、話をしても絶対に
彼らが勝つに決まってるとさびしげ。
物理や化学は定義できるものだけを扱い、
ついには、理想気体のように、理想的なもの
だけを考えてしまうが、生物はそうではない。
物理・化学は、

すっきり、くっきり、これっきり、
いつでもどこでも成り立つ

ことだけがエライと思っていて、
だからこそ単純バカであると断言する。
(実に耳の痛いお話である。)


そこで、先生流の、
やわやわで、いい加減な生命の定義では、

「生命とは環境から取り込んだ物質とエネルギーを使い、
環境と相互作用している複雑系であり、
環境の中で、その系が存続し増殖する
という目標に沿うようにできてきたもの」

ここで、できてきた、というところが現在形ではなく
過去形になっているところが大切なポイントで、

そういう歴史を背負って来た

という意味で、いつでもどこでも成り立つ
歴史が科学たりうるかという問題はあるけれど、
しかし、生物は必然的に、歴史性を抱えている。


生物に特有の、その他のキーワードの1つとして、

目的律的(目標指向性、目的に向いた)= teleonomic

が挙げられる。
teleonomicは、辞書を引くと、目的論 = teleology
と同義であると書いてあるけれど、
生物学の論争に特有な意味のニュアンスがあって
使い分けられている。


ここに、目的律的と言うときの目的というのは、
物理や化学にはないものであって、
価値や目的、損得勘定が入ってくる=生物。


物理学との違いとして、

  1. 二元性
    • 物理・化学の法則
    • 遺伝的プログラムからの指令
  2. chance 蓋然性・歴史性

生物は、ポテンシャルエネルギー最低に
落ちるだけじゃなく、単純でもない。
150万種というような膨大な数は、
堪え性がないとやっていけない。
そこでいかに、土俵を区切らずに
丸ごと飲み込むか。

目で見なければ、世の中ハッピー。

分子とか原子とか、見えないから考えられる。

生物学は、多様さ、価値、違いを
どう科学にするか。

がchallengingである。


生物学を物理や化学との対比で捉える、
仮想敵視ぎみなところはあいかわらずで、
物理や化学が大きな顔して幅を利かせている
大学で長年闘ってきた上でのことだろう。


今まで欠けていた視点に少しでも気付ければ、
必ずやバカの壁を乗り越える助けになる。
生物はソフトすぎて、とこぼしてしまうのは、
まさに堪え性がなさすぎるということか。
真剣に向き合わなければいけない。


講義はまじめに終わったわけだけれど、
ここは最後に、ラップで締めくくろう。

酵素 酵素よ 酵素こそ
 酵素 君こそ わがいのち!

熱く歌い上げてね(笑)