対象a

ラカンフロイトの弟子で、フランスの精神分析家、
思想家としても有名な人(だと最近になって知った。)
名前くらいは聞いたことがあったような気もするけど、
西洋の人だとは思っていなくて、中国人かな?とか
勝手に憶測で、知らぬが仏でそのまま来てしまってた。


だってほら、三国志の作者が確かそんな響きの
名前だったような気がしたりして・・・・・・、
でもそっち、羅貫中(らかんちゅう)だってば。
ほらやっぱり似ていなくもないけど、全然別人。
こっちは、Jacques Lacan(ジャック・ラカン)、
ジャックっていう名前なんだね、知らなかった。
それに、よく見るとつづりがフランス人っぽい。


ラカンの思想の研究者(信奉者?)や、
ラカンの流れを汲む人、つまり、
ラカン派の人のことをラカニアンと呼ぶ。
しょっちゅう、ラカンの教えによれば、などと
引用したがるような人も多いらしいけれど、
その多くは俺ラカン(自己流解釈のラカン)。


それはともかく、ラカン派で有名な
Slavoj Žižek(セラヴォイ・ジジェク
という人の話は、なんとYouTube見れる


この、オーバーアクションともとれるような
ジェスチャーでもって早口でしゃべってる人
がラカニアンの一人なんだって。へー。
ラカンはどんな風にしゃべったんだろう。


と、ここまで書いて、なんで唐突に
日記にラカンのことを書いているのか
書き忘れてることに気付いた。なんてこった。


斉藤環の『生き延びるためのラカン生き延びるためのラカン (木星叢書)』を
ざっくりかけあしで読み終わったのだった。
著者自身が高らかに宣言しているように、
「日本一わかりやすいラカン入門」であり、
書かれている文体がきわめてベタなので、
むしろベタすぎて、どこまで本気なのか
その判断に苦しむくらい噛み砕いてある。


ちなみに、日記のタイトルはラカンの言葉で、
タイショウエーと読んではいけないらしい。
通は、タイショウアーと読むのだそうだ。
ただし、もっと本格的にフランス語発音で
オブジェプチターは、やりすぎというもの。
「欲望の原因」のことをさす用語のこと。


ラカンは、「欲望は他人の欲望である」
という有名な言葉を残している。
欲望は欲求と違い、欲求は満たすことができるが、
欲望を満たすことは絶対にできないのであって、
そこには本質的な充足の不可能性があるとした。
さらに、欲望とは自分の内面にあったものではなく、
常に他人から与えられるものであると考えた。
他人との関係性においてのみ欲望が作り出される、
という思想は、納得できなくもないところ。


精神分析家なので、もちろん精神分析をする。
たとえば、
人間はエディプス・コンプレックスの段階を経て
ようやく人間になれる、とラカンは考えた。
父を殺して、母と交わりたい、という欲望の源。


まず、生後間もない乳児は母親と一体になって
「自分」と「母親」の区別もつかないような
万能感あふれる空間に生きている。そのような
「万能の母親」はファリック・マザー、つまり
***を持った母親として象徴的にイメージされる。
(ここでの***は、あくまで比喩であって、
財産とか権力とかなんでもいい。念のため。)


やがてそこに、「父親」が割り込んでくる。
ところが、万能のはずの母親が、父親のような
***を持っていないことを発見してしまい、
万能の母親イメージを断念せざるを得なくなる。
そこで、母親に欠けている***を補うため、
自分自身が母親の***になりたいと欲する。


しかし、その幻想も長続きはしない。
母親が本当に欲しているものが別のものであり、
それは父親の***であると気付く。そこで、
母親の***になることを諦めるしかなく、
母親が求めている父親に同一化しつつ、
その象徴的な***を持ちたいと願う。


***そのものであることはかなわず、
父親そのものになることもできないので、
***の象徴(=ファルス)を作り出す。
こうして、***の実在性を諦めて、
「象徴」を獲得することを「去勢」と言う。


子供が獲得したファルスは特権的な象徴で、
実体を伴わない変わりに何にでも形を
変えられる変幻自在さという特性がある。
これが「言葉」の自由さ、柔軟さである。
よってエディプス期における「去勢」こそが
子供が、はじめて言語を語る存在=「人間」
になるための最初の重要な通過点となる。


ああ、用語がいちいちどぎついので目がくらむ。
(後記: なので、***に置き換えました。)


解釈に、性的なものを象徴的に取り込む。
それはフロイトが発明したやり方だけれど、
なぜそれが有効(に見えてしまうだけ?)なのか
今回の本でちょっと分かった気がした。
欲望のおおもとの説明に性的な理由を
持ち出すと、私秘的な部分に一番近づけるから。
でも、あくまで、性「的」なのであって、
直接関わっている必要はなく、象徴的説明なので、
と言って但し書きをつけるところがズルい。


それと、自己分析は困難というか、不可能である、
という考え方も不思議な論法だけど面白かった。
自分自身を一番知っているのは自分だろうと、
ともすると考えてしまいがちなのにね。
その理由は、
自己分析は必ず一般論になってしまうから、
ということ。精神分析家が廃業しないように
予防措置のために言っているんじゃないかと
疑いそうなくらい変な理屈に聞こえるけど、
簡単に反論できないような雰囲気もある。
(もし仮に反論しても、それは「否認」と言って・・・、
と言って言いくるめられるのがおちだろう。)


精神分析というものに対して抱くものとして、
何か上手い物語を作って納得させてしまう
巧妙な装置なのだろうというイメージがあった。
そして、そのイメージはやっぱり変わらなかった。
どうして説明原理として上手く作働するのか。
精神そのものを説明しているのかというと怪しい。
からくりとして、衝かれると妙に痛いところを
絶妙につっつくやり方なんだろうなとは思う。


ロジャー・ペンローズは、

「無意識にはアルゴリズムがあるけれど、
意識にはアルゴリズムがない」
(皇帝の新しい心)

というようなことを言っているらしい。
このことと、
「階層性のある神経系」と「階層性のないこころ」
の組み合わせが実は対応しているのではないか、
斉藤環は指摘している。

「階層性っていうのは、情報を合理的なアルゴリズム
に従って処理するうえではとっても効率がいい。
だから、こころにもし階層性があったなら、
もうちょっと合理的に働いてくれそうな気がするんだ。
(中略)
でも実際には、僕たちはすごく非合理な心の働きや
とんでもなく理不尽な人間関係を受け入れながら生きている。」


フランスのことわざに、
「わかればわかるほどわからない」
というのがあるそうだ。
ラカンの理論がすこしわかった気がしても、
もっとわかればわかるほど、より深遠で
まだわかってない世界が広がるのだろう。

「確かに僕らはこころのせいで、
愚かしい欲望を抱き、不合理な衝動に身をゆだね、
ばかげた関係性に身を投じる。
(中略)
しかし、その愚かしさゆえにこそ、
僕らは転移しあい、関係しあい、
つまり愛しあうことができるのかもしれない。」

「こころ」という一見とっても不便な贈り物

のせいで、僕たちは苦しくも豊かな人生を送れる。
そのことに、すこしは感謝してもいい気がする。