本、読まへん?

図書館で予約していた群像6月号が準備できた
と連絡があったので取りに行って来てあった。
柴崎友香の最新作「主題歌」が載ってたから。


その前に、同じ号にたまたま載っていた
諏訪哲史の「アサッテの人」を読んでみた。
柴崎さんは今回もやっぱり逃してしまったけど、
その代わりに芥川賞をもらったという作品だ。
群像新人文学賞の当選作になって載ったらしく、
しかし、優秀作には選ばれなかったという。
それでも、芥川賞の選考委員に受けたのだろう。


ポンパとか、ホエミャウ、ぁチリパッハといった
全く意味不明な語を突然発してしまう叔父さんを
大学生の僕が回想しながら、作中小説として
「アサッテの人」を書き上げていくという筋立て。
メタ小説のような構図はよくある話ではあって、
でも、叔父さんが執拗に拘ったアサッテというのが
いったい何であるかを解きほぐしていく感じは
ミステリィ仕立てでもあってそれなりに読めた。


上手くいったところと片手落ちなところがないまぜで
実験的な小説としての健闘が評価されたのだろう。
誰かが評していたけれど、第二作で真価が問われる
苦しい作家になるんだろうな。
だって、自分の(作中)小説の中でメタ的な視点から
この小説は尻すぼみに終わることを宿命づけられている、
と語って本当に尻すぼんで終わらせるんだもんな。
最後にどんでん返しを用意しろとは言わないけれど。


まあそれに相当するのは、一番最後の奇妙な巻末付録。
叔父さんの踊りの平面図解がふざけててよかった。
こういう読者を煙にまく方法も一回目だけ許される。
面白くないわけじゃないけど、素直にそれを認めるのが
なんだか悔しい、もうすこし作り込めよと言いたい。
もちろん、なんで柴崎さんじゃなくてこんなのが
賞をもらえるんだろうというやっかみ感情がほとんど。
そんなこと、大した問題ではないんだけれどね。


それで、じゃあ群像新人文学賞優秀作は何なんだ、
と思って、広小路尚祈「だだだな町、ぐぐぐなおれ」
をほとんど読み飛ばしながらぱっぱーとめくる。
タイトルからしてふざけんな、という感じだけど、
読んでて、村上龍の「69 sixty nine」を思い出した。
いや、あんなに青春ものではないけど、文体とかが。
でも評者の間では、町田康の二番煎じではないか、
という意見が大半だったと言う。そうなのかな。
最近のハヤリは主人公饒舌系独壇場なんだろうか?
ハルヒに出てくるキョンとか、ってラノベだけど(笑)
保坂和志も内省的で静かな饒舌系かもしれないか。


とりあえず、アサッテ〜もだだだ〜もどちらも
狙った上でのぐだぐだだったのは間違いないので、
もっとまともなのが早く読みたくて、柴崎さんを。


「主題歌」は、初期の作品の「きょうのできごと
に似た描き方と言ってよいか分からないけれど、
一応一貫して主人公の視点が流れて行きつつも
どんどんいろいろな登場人物の心象が一言ずつ、
入れ替わり差し挟まれて行くという凝った作りで、
しかも人数がどんどん格段に増えて行く!


実加の同僚やら友達、その姉や母、その友達・・・、
次々何らかのつながりを持つ若い女性が出てきて、
ほとんどみんな、きれいな女の子を見るのが好き、
という共通点を持っていたりする。でもそういう
意味ではなくて、本当に見るのが好きなだけで、
あの子かわいい〜という話で盛り上がったりする。
家に友達や友達の友達(女性限定)を呼んで
女の子カフェを開く場面が山場になるんだろうか。
でも、基本的に重大事件などが起こることもなく
どこかにありそうな日常が綴られるだけで安心。


会社の課長以外に出てくる男性はほぼ皆無で、
ほぼ例外的な森本という、実加の美大の後輩で
絵を描いてるというキャラがなんだかよかった。
実加と奈々子、森本という3人で久しぶりに集まると
いつも森本がなぜか説教をされてしまうという役柄。
それでも、二人に敬語を使って(年下なんだろう)
言おうとするんだけど、最後は黙って謝るしかなく。
女の子カフェって何?とすこしだけ興味を持つも、
奈々子や実加みたいのがいっぱい集まるんだろ〜
こえーなぁ、と言ってしまい、奈々子に蹴られる。
口調が再現できないので、引いてみる。

 「奈々子って、いつまで大阪おるの?」
 「来週の土曜かな」
 奈々子の答えを聞いて、実加はなんで今まで
忘れてたんやろう、と思った。
 「あ、じゃあ、うちに来えへん? 女の子カフェすんねん」
 実加が奈々子に説明している間、森本は何回も、
なにそれ、なにすんの、と聞いた。
 「なんやまた、そんなことばっかり考えてんな」
 感心するのと呆れるのとのあいだくらいの言い方をして、
森本は笑った。その顔を覗き込むようにして実加は聞いた。
 「来たい?」
 「浅井とか奈々子がいっぱいおるんやろ。怖いやん」
 奈々子がうしろから森本のふくらはぎのあたりを
蹴る真似をして、森本はまたスイマセンと言った。


これが森本が出てくる最後の場面なのであって、
それでもまだまだ話は続いていくのだけれど、
なんでこんなおもしろそうなキャラを出しておいて
ぱっと引っ込めてしまうのかもったいない気がした。
森本のこと、もっと書いてよ。ビール飲んでるとこ
だけじゃなくて、作品作ってるときの森本とか、
もっと知りたいのに、でも書かれていないんだ。


柴崎さんの作品でもときどきあるパターンで、
お、この人いいかも、と思ったけど、もう二度と
登場しなかった〜、という軽いショックはよくある。
これから何か絡みがあるに違いない、と勝手に思って、
でも何もなかったというのが、日常性というか、
まさにここ一回だけなんだと思うと妙にいとおしい。


それから、上で引用してみて気がついたけど、
字の文も関西弁になってたりするということ。
なぜか柴崎さんの文体に惹かれるところがあって、
その理由が自分でもよく分からなかったけれど、
ひとつに、登場人物たちの会話がリアルだし、
そこに引き込まれているように感じることがある。
そのときに、関西弁でしゃべりあっていること
が結構大切なんだろうとうっすらと思っていた。
まさか、字の文までそのままのリズムだったのか。
それが懐かしい響きで心地よいのかもしれない。