潜在性としての開放性
日記をこちらに書くことにした。
SNS内じゃなくても別にいいかなって。
それで、あらためてこのはてなの方を見たら、
自分がなんで
"openlimit"
というIDにしたのか、おそろしい謎だ!
いや、出所は覚えているのだけれど、
それともうひとつ、日記のタイトルの
"Open-Ended"
とはいかなる関係にあるのか?
まず、open limitとは何だったか。
Y 生命や環境概念に適した、いわば弱い極限というのは、
有限、無限の中間に位置する、きわめて大きい数、
に相当する概念なんだろうか。
そういう言い方だけでは不十分かもしれない。
結論を先取りするなら、より動的で、有限、無限の間を
行き来するような、そういった記号ということになる。
それをオープンリミット(開かれた極限)と呼ぼう
ということさ。
もうお気付きのことと思うけれど、Yさんの本*1より。
ちなみに、当然だけど、対話相手はPさん。
YとPは互いに交換可能だろうというジョークを
だれかが書評で書いていたのを覚えている。
と書くとすっきりする人もいるかもしれない*2。
おそらくYもPも、
数理的な科学
と
平易な言葉*3による哲学
を志向しつつ
その両者を統合し、かつ無効にする第三項
に惹きつけられる人の心
オープンリミットの立ち位置も、
有限と無限 にYを作用させること
によって生まれた概念だろう。
Y オープンリミットは、第一に、具体的な有限の事例と、
理想化された理念的総体としての極限との、区別を創り出す。
ところがひとたび、この区別を実行すると、極限なる記号に
潜在していた別の有限が湧き出してくる。
つまり、オープンリミットは、具体的個物と理念的可能性の
区別を創り出し、この区別を潜在性によって切り返し、
無効にする、そういった装置さ。
だから、まさに質料性を体現する装置なんだ。
そうか。open limitってそういうことか。
なんかちょっと憧れて*5そんなIDにしてみたんだね。
open-endedともそんなに遠くない気がしてきた。
有限の終わりに収まらずに無限を志向する。
なんだか末恐ろしくもある始まりだね。
開けてくる未来に向かって、こんにちは。