生き方の多様性

お前、やさしい奴だなあ、と言われて動揺した。


批判をし始めると止まらなくなって、
物事の悪い面ばかりが目につくようになる。
改善すべき点を正確に把握するのはいいけれど、
ネガティブキャンペーンに走っても非建設的だ。
そう思うと、White Magicの精神はすばらしいなと
すこしは見習ってマネしてみようとした。


でも、体裁を取り繕っているだけじゃないか。
偽善者ではないという自信が急に揺らぐ。
問題をなかったことにして目をつぶり、
気付かなかったことにしていいのか。
変化を認め、寛容さを持つのがいいのかな。
たぶん、一番変わらなければならないのは
他ならぬ自分自身だということを肝に銘じ。
自己批評精神を忘れたらおしまいだから。


今の研究室に入れてよかった。
いろんなopportunityに恵まれている。

僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、
父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について
僕は、ことあるごとに思いをめぐらせてきた。


「誰かのことを批判したくなったときには、
こう考えるようにするんだよ」と父は言った。
「世間のすべての人が、お前のように
恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」


(『グレート・ギャツビー
  スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳)


今なにしてるの?と先輩に聞かれて、研究の話を
おもしろく伝えられなくて、もどかしかった。
実のところ、自分は面白がれてるだろうか?
と自問したときに、即答できない気がする。
でも、ナイーブでいて欲しいがために
いつまでも誰にも話せずに行き詰ってるよりは、
聞いてもらえて議論や相談ができてよかった。


それで、用意された答えに到達する過程より、
用意されていない答えに到達した方が面白いのでは、
という疑問になぜ拘っていたのかちょっと分かった。
あらかじめ決められた1つのゴールに到達させるのが、
あたかもレールの上を走らせようとしてるみたいで
何だか違和感を感じていたのかもしれない。
予定調和の答えには新しさがないのではないかと。


でもよく考えたら、ある決まったやり方をすれば
必ずそのゴールにたどり着けるというものでもなし、
探索方法の自由度はたぶん無限にあると言ってよく、
答えが1つでも行き方は多様であっていい。
じゃあ、どうやって分析すればいいんだろう?


いろんな人の「平均的なふるまい」から外れた
ふるまいは不正解で、ノイズとして取り除かれる。
だからと言って、本質的でないとは限らない。
と言って、科学的に扱える保障も今のところない。
新しい「答え」として組み込む余地はないのかな。
問題をすり替えようとする危険を冒してまでも、
違うものが得られる公算は大きいのだろうか。
そもそも、1つのゴールにたどり着く方法に
答えがなかった場合、平均したら何が残る?
まさか、Feynmanの経路積分*1じゃあるまいし、
どんな意味のものが出てくるんだろう。


 

*1:すべての可能な経路を足し合わせると、実現する経路が出てくる。