分からないことの効用

人に会うと、何の研究をされてるんですか?
と聞かれることが、ごくごくたまーにある。
そういうとき、いろいろごにょごにょ言ってから、
つい、「いわゆる」という言葉を使ってしまう。
いちいち説明するよりなにかと楽だし便利だし、
最初からそう言って済ませてしまうこともある。


でもこのことを自分の中では疑問視していた。
自分の言葉で考えようとしていないのではないか。
実は、「いわゆる」と言われてるレベルでしか
自分でも理解していない証拠なんじゃないか。
きちんと分かってもいない自分が使うのは危険。
そこに落とし穴がある気がしてならなかった。


それで何が分かるのか?という問いも多い。
そんなとき、数学者の岡潔の言葉を知った。

よく人から数学をやって何になるのか
と聞かれるが、私は春の野に咲くスミレは
ただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。
咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、
それはスミレのあずかり知らないことだ。
咲いているのといないのとでは
おのずから違うということだけである。
『春宵十話』


実利にはならないけどどうのこうのとか、
科学とはそういうものだ云々かんぬんとか、
余計な説明をするより余程すっきりしてて、
絶妙な返答の仕方のような気がする。


そして、こう続ける。

私についていえば、
ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているだけである。
そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。


学ぶ喜びを食べて生きるなんて、
けだし名言ではないか。憧れるよ。
それを、こんな風にたとえてみせる。

数学上の発見には、
それがそうであることの証拠のように、
必ず鋭い喜びが伴うものである。


この喜びがどんなものかと問われれば、
チョウを採集しようと思って出かけ、
みごとなやつが木にとまっているのを
見たときの気持だと答えたい。


ここで、チョウの話が出てくるところが
とてもおもしろい。


発見の鋭い喜び、という言葉はもともと
昆虫採集についての寺田寅彦の文章からで、
寅彦にしても養老さんにしても皆、原体験として
共通しているところが興味深い気がする。
自分の場合思い出されるのはセミ採りだろう。
夏休み、来る日も来る日も飽きもせずやった。
見つけるという行為の一番わかりやすくて
体感しやすい形のひとつなのかもしれない。


しかし、分かるようになる前には
踏まねばぬ段階があるとも言う。

全くわからないという状態が続いたこと、
そのあとに眠ってばかりいるような一種の
放心状態があったこと、これが発見にとって
大切なことだったに違いない。


わからないときは何のためにあるのか?
そうは簡単に分からないという苦しさ、
その状態にある意義とはなんだろうか。
分からないのでは意味がないと切り捨てるのは
容易いけれど、それを押しとどめる何かが。

種子を土にまけば、
生えるまでに時間が必要であるように、
また結晶作用にも
一定の条件で放置することが必要であるように


そんな時間も愛おしく思う。