途方に暮れている状態だけが信じられる

岡潔の話はもう1か月以上前に読んで
そのときに考えてたことだから古い、
ということを書いておくべきだった。


一昨日の夜読んだ保坂和志の文章。

考えるとは、何か答えを見つけることだ
と思っているけれど、答えなんかない。
疑問を持ち続けることが、
答えを見つけることよりも大事で、
それがたいていの人はわかっていない。


どこかに答えが書いてあったりしないか、
と探しているようなのは、考えていない、
ということなんだよなと思う。
曖昧さ回避とか、もしかして…?とか
自動で候補がぽんぽんぽんと並べられたり、
そんな分かりやすさはどこにもない。

解けない疑問を見つけることのほうが大事。
で、それは答えに辿り着くようなものとは
全然違うわけです。


安易に辿り着こうとするから無理が生じる。
答えはこれだ、と飛びつくのは多くの場合、
早合点とか勘違いとかそういう類なのかも。
そもそも、そんなわかりやすい答えがある
という前提が甘い見通しなんじゃないのか。

「Confusion will be my epitaph
(私は戸惑いを墓碑銘としよう)」
という曲があって、その言葉を知ってから、
わかんない状態こそが信じられるというか、
途方に暮れている状態だけが信じられる
と思うようになった。


そういう信じ方もあるのだなと思った。
何かがわかった状態を信じるものだと
ばかり思っていた節がある気がした。
わからない状態があるということを
きちんと認めて、それがどういうことか
と考え続けることも必要かもしれない。
焦って思考停止して勇み足になるなら、
わかった気にならない方が賢明だろう。

自信があるような人の前に出ると動揺して
たじろぐけど、それはしょうがない。
たじろいだり気圧されながらも
「何か違うな」と内心思うかどうかで、
とりあえずは充分だと思う。


向き合う姿勢として、圧倒されると
太刀打ちできなくて縮こまるものだ。
議論をふっかけられて、君の言い方は
間違っている、といきなり言われて、
大嫌いな先生だったせいもあるけれど、
感情的に反論してしまったことがある。


そのときは、飲み込まれそうになったら、
飲み込み返せばいいんだ、くらいの
強気でカバーしようとしてたところがあり、
でも、これってhandwavingしてる状態だ
と気付いて、なんとか落ち着こうとした。
相手の主張の根拠は何だろうと考えたら、
向こうも感情的に論駁しようとしてる
ということに気が付いたら一気に冷めて、
自分の言い方に非を認めることにした。


そのときは全然そう思えなかったけど、
たとえば、あれはdevil's advocate
としてそう言われてたんじゃないか、
と違った見方をしてみたりする。
言いくるめようっていう魂胆ではなく、
論理を鍛えるためにやっていたと。
わざわざ議論してくれる人なんて
実はそういないということもある。
でも、耳を傾けるのってむずかしい。


そっと素直にこの言葉を
受け取ろうと思っていたのに。
自分にとっては、保坂さんとて
自信がある人に見えている、
ということに今ごろ気が付いた。
ただ鵜呑みにしようとしていた
自分がどこかにいた気がする。


もし受け入れがたいものならば
しっかり拒否すること。
逆の立場でも、またしかり。
それも大事なことだと思った。

自分の心細さとか不安だけを信じる。


信じることは強さにもなるけれど、
でも、弱くてはだめなんだろうか。