最終講義

を2つ聴きに行った。


部屋に入ったら、錚々たる教授・準教授の面々が、
この部屋寒いから、なるべく上の方に座ろう
と口々につぶやかれてぞろぞろ移動されている。


それはどのような論理か?


そう。ここでは、熱力学がごくごく自然なのである。

温かい空気は上昇する。

(当たり前やがな!)


もちろん、当然のことながら、やる気がないので
進んで後ろに座っているのでは決してない。
ここでは物理法則をさらりと応用するのが通であろう。
彼らはそれのプロである。忘れてもらっては困る。


しかし私はそれに逆らって、すいている前の方に座った。
下の方がポテンシャルが低いから、という別の理屈もある。
前方の席がガラ空きなんてそんな失礼ができるものか!
いや、単に熱力学をド忘れしていただけでもある。
結局、その席は寒かった。さすが先生たちの理論は正しい。
脱いだコートを着ようかと思ったけど、やせ我慢した。


前の方では、プロジェクタが映らないと騒いでいる。
名だたる教授・準教授陣が5〜6人集まって、
ああでもないこうでもないとこねくり回しているが、
しかし、入力信号がありません、と表示されている。


そうだ。理論系の先生は、機械に弱いんだった。
それは納得の行く話であり、大いにうなづける現象だ。
しかしよくよく見ると、実験系の先生もいるではないか。
果たして、実験系の先生でも、エラくなってくると
機械が使えなくなるのやもしれぬ。さびしいことである。


しばらくして、専門家が来たーと口ぐちにはやし立てて、
(もちろん、はやし立てているのは教授たちである。)
どこぞやの研究室の助教さんがいらした。
さすがに一瞬で解決した。
プロジェクタ関係の専門家なんているんだろうか?
まあでも、記憶が正しければ、光学系の助教さんではある。


結論としては、機器が高性能化したので、何もせずに
ただケーブルをつなぐだけでOKだったようだ。
それを、設定を変更したり手動で何かしようとして
変に触ったためにかえって映らなかったらしい。
この頃のテレビは叩いても映りがよくならない。


一人目の先生のご専門は、近接場光の理論だった。
初めて聞く内容だったけど、かなりおもしろかった。
長く企業の研究所におられて、そこで培った興味:
回折限界を越えるにはどうしたらいいのか
を特任教授として追及され続けて来た。
かんたんに説明すると、普通の光の性質として、
光を使ってその波長以下のものを見ることはできない。
でも、近接場光ならその限界を超えることができる。
すごーい。どうして?
それは自分で勉強してね、だなんてその講義で
言ったりするわけないけど、えーここに書くの?
いやあ、それを説明するには余白が足りない。(うそつけ!)


実際のところ、理論的にちゃんと分かってるわけじゃなくて、
まだまだよく分らないけど、実験的にいろいろ見つかってて、
未知の理論が必要らしい。それは今後の課題なんだそうな。
光子と有限多体系との相互作用
をどう記述するか?がいまのところほとんど未解決だって。
素粒子理論の人だったら、 E \rightarrow \inftyとやるし、
物性理論の人だったら、 N \rightarrow \inftyとやって
それぞれ逃げるんだけど、それじゃ説明できないって。
(無限大に飛ばすときれいになって計算できるんだけどなあ。)
それに、電子はフェルミオンだけど、光子はボゾンなんで、
混ぜたらどうなるねん?というのもよく分らんって話だ。


ぼくみたく素人が聞くと、多体系?あ、もうムリ、
みたいな気がするんだけど、え、有限系?じゃあ絶対ムリ、
って反応したくなるけど、そこをぐっとこらえてだね。


今さら、物性関係の授業をほとんど取らなかったのが
悔やまれるけど、悔やまれるだけなんだろうけどさ。
具体的な物質の名前が出てきただけで、ちょっと萎える。
なんでだろう、超電導になる物質の名前とかさ、
ごにゃごなごにゃごにゃっとしてて、なんだろう、
化学を思い出すのかもしれない。不毛な感じがして。
その実、ものすごく有用なんだけど、なんだろ、
化学反応式アレルギーとかってあるんじゃないか。


でも、量子ドットとかナノスケールのスイッチとか
もちろんすごい技術を駆使してるんだろうけど、
見てると楽しく見えてくるから不思議だなあ。
実験で次々新しい現象が見つかって理論が追い付かない、
という現場がすごくうらやましくて、理想的な物理の
あるべき姿なんじゃないかなと思った。


…休憩をはさむ…


お二人目は素論の方。ひもの人。以上おしまい。
(おいおいおいおいおいおいおいおいおい。←って多すぎ)


永宮さんの言葉がとっても素敵だった。
くわしくは忘れちゃったんだけど。でも印象的。
(引用の言葉の方が印象的ってえらい失礼やがな。)
物理学会誌の巻号くらいメモっとけばよかったと後悔。
和達さん
と同級生だったそうな。なるほどそういう年代なんだね。


修士の頃にスキーで骨折して半年入院されてて、
大学に戻ったら、大学が閉まってたんだって。
だから、全然研究ができなかったのだとか。
と謙遜しつつ、すこし新しい計算をした、とも。
って、どっちやねん。はっきりせいや。ほんまは
新しい結果も出したんやろ。ほな、すごいやん。うん。


たとえば、院試前に久保亮五の熱統計の演習書
全部解きました、とさらりとおっしゃったこともあるくらいなので、
それはめちゃくちゃ頑張り屋さんなんだなって尊敬する。


質疑応答のところで、質問しているのが、気付いたら
全員教授だった、ってのにまず驚いたのなんのって。
(学生が2人だけいたけど、それを除くと。)
しかも、どれだけナイーブやねん!というくらい、
いやでもそこが一番聞きたかったんよ、という
かゆいところの質問の連続でもあって応酬が楽しい。
実は同じ分野の専門家がイジワルになって質問してたり、
それをおちゃめでかわいい質問に見せかけてたり、
この際だからずばり聞いてしまおうという魂胆か。
それに誠実に答えてるところがなんとも紳士だよね。
まるで最終試験のディフェンスみたいだった。


やっぱりこれも引用なんだけど、吉川さんの言葉で、
時代の流れというのは、その時代に解くべき問題を
扱ってることが多い と(たしかこんな感じ)。
自らを反省しつつ、そのフォローとして引用されたんだけど。
見てて痛々しいよ。いや、自覚的だったというだけで
もうそれだけで十分な気がする。人に指摘されるのでなく。


自分で時代を切り開ければベスト、でも、それは難しい。
難しいからといって解けるところだけやってるのもむなしい。
かと言って、解けないところに挑戦し続けていても、
そのまま斃れる危険性と背中合わせでつらいものがある。


苦しい。苦しい。でも分かりたいっていう欲求ほど
こんなに苦しいことってないんだよね。たぶん。
逃げてたら味わえない苦しみだから、なかなか
得られないありがたいものだから、喜びになる。