スイッチ・オン

自分の言葉なんかよりも、誰かの言った言葉の方が重みを持って
感じられるときがあるってのはどうしてなんだろう。
自分の言葉だとどれくらい底が浅いか見え透いてしまうから?


浮足立って口走ったことが、後から本意と違った
なんて翻意したくなるくらい力を失った言葉ってのがあって、
あーあ、って溜息をつきたくなったとして、取り返しのつかなさ
が後悔に近くても、さっき言葉がついて出てきたときに
言葉の選択の不適切さとか言い方のぜひはともかくも、
何かを言わなきゃいけないと思ったことだけは、たぶん
取り消すべきではなくて、うやむやにもしちゃいけない。
でも、どう表現すればよかったのか本当に分からない、
というのも事実なのであって、自分の未熟さのせいにして
片付けてしまってもなんかそれも違うという気しかしない。


逆になんとも上手く言い表せてるときというのがたまにあり、
ほとんど、直接かどうかは別にして、誰かに言われた言葉
にはっとさせられるので、いい表わされちゃった感と言うべきか。
そっか、そういう言い方があったのかという新しい発見とか、
言い当てられてしまったさびしさとか、でも言いたかったこととは
違うときには、すり替えられてしまったり、上手くかわされて
外されてしまったり、ちょっと無念な気持ちになることもある。


そんなに簡単に回収されたくないし、落とし込まれたくもないし、
勝手にきれいにまとめないでよ。 と思うときにはたいてい、
それがなぜ、自分の言い表せなかったこととはちがうのか
説明できなくて、でもそれとは違うんだ、という感覚だけ残る。


流されたくないとか、聞く耳を持たないとか、もしそうだとしたら
ただの頑固で、融通が利かなくて、切り替えできないだけ
の石頭なのかもしれないけど。うーん、なんだろう、それと、
おもねりたくない、というのとではちょっと違う気がして。
相手に服従とまでは言わずとも、追従しているだけだと、
自分で考えなくていいとか、真似しておけば無難だとか、
もっと行くと、拡大ではなく、縮小再生産になったりとか、
そんなにひどくなくても、とっても楽でよさそうだけど、
そんなんでいいのかね。いいわけないよ、当然。


前を走ってる人を追いかけないという意味ではなくて、
目標と言うのも変だし、目印というのも違うんだけど。
夜。前の方にひと際目立つ大きな灯台がひとつあって、
その周りを広く明るく照らしてくれてて、そのおかげで
その下の辺りは比較的よく見渡すことができるから
自分でも分かった気になりやすくて勘違いしがち。
でも実際は、灯台の光が向こうを向いてしまったときに
自分の手持ちの小さな懐中電灯で照らしてみたら
さっきと同じ場所なのにほとんど何も見えなくなって
途端に心細くなるし、間違った方向に進みそうになる。
ときどき灯台の光がまた照らし出されたら、ああ、
道を踏み外しちゃってたとやっと気付かされたり、
独力だけでは見通せなかった周辺が浮き彫りになる。


でもいつしかこんな疑問を感じるようになる。
すでに灯台の光が引き受けてる範囲の中だけを
我が物顔で歩き回ってていいのかなとかね。
自分の手持ちの懐中電灯は小さすぎて心許ないし、
今のところほとんど信頼するに値しないくらいだけど、
だからと言って、そのスイッチを入れずに切ったままで
灯火が来るのをまったり、夜明けを待ち続けたり、
そんな他力本願もいいところでやっていこうだなんて
甘い考えでいても、生き方としてはありだとしても
自分って何なんだという意識が薄すぎるというか。
基礎がしっかりした、自分の足できちんと立った
灯台を自分でも建て始めてみるというような気概くらい
なくってどうする。(明らかに今、浮足立ってるけど。)


まずは、懐中電灯でもいいからスイッチを入れて。