嘯月

ゼミで使った講義室にはそこそこ新し目の机があって、
コンセントとLANジャックがそれぞれついているすぐれもの、
のように一見したところ見えるんだけれど、そのままだと
実はそれらは生きてなくて、机の下にあるコードやケーブルを
つながないと使えなかった、という意味で、微妙に使えない。
ネットは無線LANでなんとかするとして、電源は欲しいので、
まずどれかの机の下から伸びるコードを延長コードに接続。
そうして、1つ生きた机ができる。後は、その机とひとつ
後ろの机のコードをつなぐ操作を数学的帰納法の勝手で
順繰りに電源を延長させて、単連結グラフがひとつ完成。
コードがうねうね机の上を這ってつながってる様が楽しい。


後輩の話を聞いたりしながら、科学するって
どういうことなのかといろいろ考える。
もしお話のレベルではいけないのだとしたら、
今の脳科学って、全部お話だよなって思う。
ちょっと言いすぎかもしれないけれど、
データがあって、それを科学的に解析して、
そこから結論を導いたふりをしていても、
そうやって一貫性のあるお話をでっちあげて
ぎりぎり同意が得られるラインを目指してるだけ。
なんかふにゃふにゃしてるような気もするけど、
相手にしてる対象が捉えどころのないものだから、
明確に断言できるようなはっきりした結論で、
一刀両断にスパっと斬れなくて当然かもしれない。


でも、たしかに文学的なセンスで話をされると
だんだん何だか違和感のようなものが嵩じてきて、
別に間違ったことを言われてるわけでもないのに
アプローチの仕方が妙に気持ち悪いってのはある。
まず最初に物語ありきで、それを支持するような
関連する話題が次々出てくるという「順番」が、
科学のそれとは逆なんじゃないかと思った。
確固とした証拠となる事柄をどんどん挙げていって、
最後にそれらをまとめて、だからこれこれという
ストーリーの出来上がり、と示すのが科学だとしたら、
それとは対照的に、ある物語がまず始まって、
それが進むにつれ、いろいろな事物との関連が
少しずつ明らかになるにつれて、話題がどんどん
広がって厚みを持って行くのが文学、みたいな
感じだとしたら、やろうとしてること自体は、
そんなに遠いわけでもなく、手順が違うだけ。


だとしたら、壮大な物語があっても別によくて、
文学的なセンスを発揮してもいいから、まずは
とりあえず最低限、「科学っぽく見える」ように
プロトコルに従ってれば文句は言われないはず。


ゼミの後書類を出して、お花見の残りのお酒を戴く。
おつまみもたくさん食べたけど、それでもまだお腹が
空いてたせいか、かなりの勢いで酔いが回って、
いい加減になってしまった。こんなにふわふわして
ちゃいかんと思って、酔い醒ましに屋上に行ってみた。
夜風が気持ちよくって、いい形の三日月を眺めて、
星の数を数えてみた。いろんな方向をぐるぐる
見まわしながら20個くらいまで数えたところで
雲が出てきたのに気が付いて、数えるのをやめた。
どれだけの時間そこでぼーっとしていたのか
分からないけれど、部屋に戻ったらもうみんな
帰ってしまって、人が少なくなってて淋しかった。
帰り道、建物のわきに群生してて壮観だという
土筆を確認するのを忘れてしまった。


日々の生活に結論などないのだよ。それならば、
科学が導ける結論というのはいったい何であろう。