行為の無記的要素と迷い

ひょんなことから、九鬼周造という人が「偶然」についていろいろ考えていた
ということを知った。偶然性の問題とはなにか。

偶然を切り分け、分類し、解体してゆく。
どうしてこんなに偶然性に拘泥したんだろうと思うぐらい。
それでここを読んだらすこし背景が見えてきたような気がした。
そんな簡単なわかり方をしてはいけないと思いつつ。


ずいぶん堅い文章で取っつきにくく、正直あんまりきちんと読めなかった。
ざっと読んだところ、核心に迫りつつあるような雰囲気だけ感じた。
この人、なんだか生真面目すぎるんじゃないかと思っていたところに、
『音と匂』という随筆(これ)読んだら、感じが全然違ってびっくりした。

私はかつて偶然性の誕生を「離接肢の一つが現実性へするりと滑ってくる推移のスピード」というようにス音の連続で表してみたこともある。


うわ、なんか気障な言い回し。でも嫌いじゃない。
そういう滑稽な軽快さをのぞけば、センチメンタルという言葉が似合いそう。
偶然を定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然の三種類に几帳面に分類していた
歯が折れそうな文章を書いたのと同一人物とは俄に信じがたいほど。

そこではまだ可能が可能のままであったところへ。

九鬼が好きなあたたかい場所。


なんだかゆるい随筆で妙に違和感があると思ったら、
たぶん、この人の名前がこわそうに見えたんじゃないか
と気がついた。そんなばかばかしい理由でいいのかな。
真偽はともかく、とりあえず、すこしは怖くなくなった。
それでも、まだ手強いことに変わりはないけれど、
随筆なら読めそうな気がする。
「いき」の構造という本がどうもかなり有名らしい。
何か似たタイトルの作品があったような、と思ったら
それは、「甘え」の構造だった。こちらは土居健郎
全然関係なかった。しかもどっちも読んだことがない。
どちらかが、昔、家の書斎の本棚にあった気がする。


伝聞ついでに、最近見つけた興味深い文章
大滝朝春『ビュリダンのロバは餓死しない』(PDF
哲学の人が書いたものだから、ときどき用語とかの意外性というか、
親しみにくさは感じるものの、考えるところがある。
というか、認知科学の言葉に翻訳すれば、おもしろそう。


たとえば、行為の無記的要素について。
グラスに注いだ水を飲むときに、グラスの上から
何センチのところを握ろうかと悩む人はいない。
4センチ9ミリにするか、5センチにするか、云々、
可能性は無限にあるというのに。
迷うべき場面だということに気づかなければ、
そもそも複数の選択肢の中から自発的に意思決定している
ということを自覚し得ない、とでも言おうか。
著者は≪選択≫における≪決意≫と≪理由根拠≫のありなしで
4通りに分類するのだけれど、用語はともかく、
後付けの根拠とか、後知恵みたいなretrospectiveな視点も
考えればもうすこし複雑になるように思う。
ああそうか、時間が入ってないから気持ち悪いんだ。

行為の無記的要素は、個別的・具体的な行為の基盤である。つまり、単に行為がしかじかのためのしかじかの行為として選択され意図されるにとどまらず、それが現実の行為として遂行される場合には、この無記的要素が無記的基盤として、まさにその行為を形成しているのである。
したがってしかじかのためのしかじかの行為一般ではなく、時間的・空間的な一回限りの出来事としてのまさにその行為が成立する場合、そこには無記的基盤としての無記的要素が結果しているのである。


ああ、分からない。
無記的基盤というのは、無意識のことなんじゃないか?
と思えてきたけど、そんな理解じゃつまんないな。
でももっと重要なことが含まれているような予感がする。
つまるところ、

時間的・空間的な一回限りの出来事

がどのような基盤の上に成り立ち得るのか知りたい。
でも、この文章は何も教えてくれないのかもしれない。
だけれど、もっと違う見方もできるんじゃないか。

創造性は意外と、意図しないところに生まれるんじゃないか、

そう言ってる気がしてきた。飛躍しすぎて自分でも、謎。


ところで意志と言えば(やけに唐突だが)、
Patrick Haggardが新しいレビューを出したそうだ。
Human volition: towards a neuroscience of will
Nature Reviews Neuroscience 9, 934-946 (December 2008)
http://www.nature.com/nrn/journal/v9/n12/abs/nrn2497.html?lang=en
哲学より、こういうのを読んだ方がすっきりするだろうか。
いや、畢竟、すっきりしたいのかと問われればそれも微妙。


とにかく。
可能性はそれでいいとして、でも実現しなくちゃ意味がない。