False Greatness

お花見をした。幹事といういきものになった。
たぶん、自分なりの努力をしてみてた。


誰かががんばっている姿というのは得てして無様で、
周りから見ていて、とても見られたものではない。
しかし、自分がそうなってみると何より心強いのは、
その姿が自分には見えないから当面気付かずにすむし、
そもそもそんなことで気をもんでいる余裕もない。

無様な存在は、案外かっこいいのだと思う。
少なくともコンセプチュアルなレベルでは。


と自賛することでかろうじて自我を保てるくらい
追い詰められている状態なのかもしれない。
もちろん、自己言及的に追い詰めているのだから、
自分を許すことさえできれば内側から軽くなれる。
それは許すというよりは、油断する、に近い。
そう言えば、許すの未然形は緩さと音が同じだ。


他の人にはまねできないことをしたかった
わけではなくて、途中経過が残らないだけで
誰にでも出来たことをしただけにすぎない。


もっと楽な方法もあったかもしれないけど、
一人で抱え込んでおけば耐えればすむ、
責任感の強さほどたちの悪いものもない。
そんなもの必要ないのだ。


みんなを喜ばせたり喜ばされたり、
誰かを傷つけたり傷つけられたり、
悲喜こもごもどれも美しくて残酷。

Tis true my form is something odd,
but blaming me is blaming God;
Could I create myself anew
I would not fail in pleasing you.


If I could reach from pole to pole
or grasp the ocean with a span,
I would be measured by the soul;
The mind's the standard of the man.

Originally from the Hymnody,
"False Greatness" by Isaac Watts,
aka Joseph Merrick's rhyme.


魂のかっこよさへのあこがれはわかる。
でもそこまで純粋になんてなれない。


やろうと思えばできたのにしなかったことは、
いつまで経っても悔いが残って苦しくなる。
あえてしなかったがための今があるとしても。

わたしを責めることは、神を責めることだ。

エレファント・マンが引用した賛美歌の一節。


思い上がらないで生きるとはどういうことだろう。


はぐらかさないで語ることは困難をともなう。
これまでどれくらい信用を失ってきたとしても。
言語化しないことで無意識の片隅に追いやっても、
じわじわ浸食してもろくなっていつかは壊れる。
言葉にはバイアスがかかるからたぶんほとんど
正しくないけど、一点だけは本当かもしれない。
それが言葉になったということにおいてのみ
真実を含んでいないとは言えまい。


一生かかって、誰にも話さないという
ひとつの大きな嘘をつき通すくらい
やっかいなことも他にないだろう。


取り返しのつかなさに動揺するのが
人間らしさのゆえなのだとすれば、
自分もやっとすこしは人間に近づけた。