ネコが死んだ

庭にネコが来るようになったのがいつかもう思い出せない。
最初は姿を見せなかったけれど、落とし物をして行ったり、
それを隠すためか芝生をかきむしりめちゃくちゃにしたり、
植物に水をやって行ったり、明らかな形跡が遺っていた。
それよりは、ああもう、またこんなところに。と騒ぎたてる
母の声が向こうで聞こえるたびに、来ていたんだなと思う。


母は撃退しようと次から次へとネコ避けグッズを試す。
消毒薬をまいたり、針金を草むらに隠して設置したり、
柑橘系の匂いがキライらしいと聞くとそれを置いてみる。
最初は効果があるようなないような、でもしばらく経てば
ことごとく失敗する。どれも慣れれば怖がらなくなる。


向こうも大胆になると、白昼堂々と優雅にひなたぼっこ
までしはじめたりしてよっぽど気に入ったのだろう。
悪さをしないならば目くじらたてる必要もないのだが。
乾いた洗濯物に猫が嫌がるという変な匂いがついていると
ブルーになる以外は、僕は中立な立場にいたと思う。
好奇心を隠せずに、窓のすぐ近くまで寄ってきて、
こちらの動静をうかがおうと首をかしげてるさまは
愛嬌があるのに、父が脅かすとあわてて逃げてしまう。


それが急に、最近とんと見かけなくなってしまった。
いたずらっ子が来なくなるとそれはそれでさびしいと。
どうしたんだろうね、もっと他に安住の地を見つけて
のんびり暮らしているんだろうかと安堵していた。


しかし管理人さんから聞いた現実はちがった。
一匹は車にひかれ、もう一匹は立体駐車場の底で
ひからびて死んでいるのが発見されたそうだ。
それ以外の残りはどこかに行ってしまった。


このときまで、何匹もいたということを知らなかった。
区別できるほどなんども遭遇しなかったのもあるけど、
ちゃんとよく見てはいなかったのだろう。


ネコにエサをやらないでください、という
貼り紙もいろいろなところにされていたから、
だれもエサをやらなくなっていたのかもしれない。
先に親がいなくなったから、エサをもらいに
出て行けなくなったのかもしれない。


竹内さんや保坂さんの作品には必ず猫が登場する。
でも猫が登場してこなければならなかった訳が
いまいちよくわからなかったのが本音だった。
単に自分も飼っていて、大好きだからということ
が大本にあるとして、それ以上のなにかがある。
保坂さんは、猫を心象風景には決して使わないし
ましてや、なにかの比喩に使ったりは絶対しない
というルールを守って書いてきたのだという。
猫を書くときは猫としての存在としてのみ書く。
それはたぶん、人間を書くときと同じように扱う
ということなのだろう。


親しかったとは言えない間柄だけど猫がいなくなった。
庭を荒らしに来ることも窓をのぞきに来ることもない。
芝生がところどころ剥げていて、そこだけまだ
新芽が出ていないのでうす茶色けて土が浮いている。
そこも時間が経てば新しい芝か雑草が生えてきて
覆ってしまえば猫来訪の痕跡も消えてなくなる。
風呂上がりにバスタオルを顔に押し当てたときの、
猫避け薬のかすかに鼻につんと来る刺激も懐かしい。