外にはないわたしに向けて

見えているものはすべて外側なんだよ。


客観的になってしまったものは、
すべて外のことであって
わたしの中のことではない。


わたしに由来する外側となったわたしの残滓は
もはや、わたしではないと拒絶反応が起こる。
外側になってしまった瞬間に新たな表面ができ、
中に覆い隠されるものがある。それが、わたし。


内側からなら自分自身の中身が見えると
思ってきたけど、内側の表面、つまり外側が
見えているにすぎないのかもしれない。
わたしはいつも見えない側に隠れるから。


ちょっと似てるけど、こういうことが言いたいわけではない。
ちなみに元論文は、Parsons, et al. 1987(.pdf)。あと、これとか。
自分の額に利き手で「あ」とか「正」とか、「R」とか書いてみて、
さてどっち向きに書いたでしょう?って確かに面白いんだけど。
ありとあらゆるポーズで実験したってのもえらい。Figuresは笑える。
でも。自分の身体表面がどう知覚されてるかは興味深いけど、
関係ありそうに見えて、わたしの内側とは関係ない。


つまり、身体表面の中に詰まってるものが自分だと
ふつうはそう思ってるけど、そういうわけじゃない。
だって、断面図を見てもわたしは写ってないのだから。
そこに写っているのはわたしの外側なのであって、
わたしがそう簡単に外側に姿を現すと思っちゃいかん。
もうすこし言うと、外的な装置だかなんだかを使って
わたしが見えるなんてことはあり得ない。絶対に。
ということを、ふだん忘れてる自分がいると気付く。


そうそう、外側、内側は、「そとがわ」、「うちがわ」と
正しく読んでくれたかな。まちがって、がいそく、ないそく
と読んでしまった人は、もういちど最初から読み直し!