自由にやりたければ

瞬きをしただけのつもりだったけど、次に目を開けたら終点だった。
仕方がないのでまあこういうこともあるさと居直って、反対向きの電車に
すごすご乗り換える。さっきは急行だったけど、今度は各停なので
それぞれの駅に律儀に停車して行く。急いでないから別に構わない。


外の空気を吸ってくるのもいいかもしれないけれど、
どうかな、と逡巡していて、いろいろ秤にかけていた。
でも、概念的におもしろさがわからなくて迷いがあるなら
やめた方がいいよというアドバイスを聞けたので安心した。
おもしろさの閾値を超えようという自助努力を怠ったから
ではないと言い切れずにいたけれど、きっと直感も侮れない。
最初にどこがおもしろいのだろうかと疑念を持った時点で
心は決めていたのかもしれないけれど、優柔不断だった。
何が起こるかわからないことがすべておもしろそうに
見えるわけではない。第一、おもしろがっていなければ
本当におもしろいことが起こっていても気付けないだろう。


たとえば、なんでも自由にやっていいと言われた場合、
どれくらいの選択肢であれば自由に感じるのだろうか。
ある程度以上のところでは、逆に制約が課されていないと
かえって不自由になってくるということがたぶんある。
多すぎるとその中から選べない。自由度無限大は不自由。
それはいいとして、よくないけど、とりあえずいいことにして、
ずーっと前に見た図が気になっていた、ということを
これまたかなり長い間忘れていたのだけれど、この機会に
なぜか思い出したので、探し出してみたら見つかった。
The Paradox of Choice: Why More Is Lessという本の著者の図。





左側のはいわゆるプロスペクト理論だけど、右側のは?
出典はThe tyranny of choice (.pdf)という記事なんだけど。
選択肢の数が増えるとうれしいけど、増えすぎるとうれしさが
減ってきて、どこかの時点から先はイヤになるばかり。
でも気になってたのは、このラフスケッチっぽいスキームは
直観とも一致して正しそうな気がするけど、1こ、2こ、3こ、・・・
と実際に選択肢を増やしたときのこの曲線の曲率って
どれくらいになるんだろう?具体的な関数形が知りたい。
でも縦軸というのが、いわば幸福度をプロットしたいわけで、
そんなもんどうやって計るんだよ、という疑問が生じる。
ひとつには、xコかyコの選択肢のオプションがあったら
どっちを選ぶか。yコの選択肢を選んだら、そっちの方が
なにかがうれしかったんだろうって解釈することにする、
で、x、yの組み合わせをいろいろ変えていって調べるとか。
選択肢の数の関数として相対的な選好の順序がわかる
みたいなことを誰かやってないんだろうか。


と妄想したけど、だけどそれをやるには全然足りなくて、
何の選択肢なのか、どれかを選択したら何が起こるのか、
それは確実に起こるのか、気まぐれで起こるのか。
具体的な選択肢の設定まで入れないと意味がないね。
でもそうすると、ゲーム理論マーケティングの問題に
なっちゃって、知りたかったことではない。どうしてかな。
選択肢を選ぶ行為自体が同じでも、その文脈によって
行為の位置づけが変わってくるとしたらなぜだろう。
選ばなかった道に何が待っていたか気になる以外に。


ネットを前にして、どうにかここからなにかを
引き出そうとしたら必ず選択肢が付随していて、
いつも直面しているのはべらぼうに選択肢が
増えすぎている状況で、そういう場面での
認知実験ってなんかないのかな。できそう。
それこそ、選択肢無限大の状況みたいな。
とか言ってないで、思いついたらやればいい。
あと他には、選択肢をやり取りするゲームとか
できないかな。選択肢自体が報酬になるなら。
お金が、ある意味で選択肢の幅を決めるとしたら、
間接的にはすでに扱われていると言えるのか。


かのダーウィンの手稿はThe Complete Work of Charles Darwin Online
すべて公開されていて、画像とテキストが読めるそうだ
もちろん、あの有名な本だって、何だってある。すげー。
かなりすごいプロジェクトだと思う。えらいよね。
それで、ダーウィンが結婚すべきか迷っていたときに
それぞれの場合の長所と短所を並べた表を作っていたらしい。
"This is the Question" 他にも考えることは山ほどありそうなのに。
悩み多きはよきことかな。ダーウィンでも迷うんだ。