存在するための運動をいまと呼ぶ

肥大化した自己というのが単なる比喩ではなくて
ボディイメージの話だとしたらネットをやってると
自分がどこまでも延長できるような気がしてしまう
というのもひとつの例なのかもしれない。


そのときにひとつ新しい延長の仕方として
空間に閉じこめられずに時間の方向へさえも
伸縮自在に意のままに移動できた先が自分になると
それが記憶の領域の問題なんだったらいわゆる
メンタルタイムトラベルでしかないんだけれど
内部の記憶ではなく外部の時空に開かれている場合
どれくらい自分が薄まらずに維持できるだろう。


見失わない範囲のことを手が届いた範囲として
自己帰属しえたと考えることにとりあえずすると
時間方向でたどりつける先と言うにはどうやって
なにがそこに届くと考えればよいのだろうか。


つまり自分の空間成分のデフォルトの拡がりが
身体だとみなしたら時間成分はどういうふうに
いまが厚みを持ってわたしの一部となるのか。


時間がモダリティのひとつでなかったように
逆説的だがわたしにはいまを知るすべがない。
いまがいつであるのかを知らなかったせいで
既知の安全としてのわたしは危険を志向する。


時間が存在しないならわたしも存在しない。


わたしを仮に引き留めておくための詭弁が
いまであってもそれなら一向に構わない。
どこにあるか探す行為こそがいまだから。
それゆえに時間の所有感が主体性を生む。