神は遊ぶ

遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。
遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。
それは神の世界に外ならない。
この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。

白川静 『文字逍遙』 遊字論


のっけからこの勢いで始まる白川さんの遊字論を読み始めた。

「遊」の金文図像(なんかたのしそう)
もともと松岡さんたちの編集されたその名も「遊」という
今や伝説的となった雑誌に連載されたものだそうだ

遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、
はじめて遊は意味的な行為となる。動かざるものは神である。
神隠るというように、神は常に隠れたるものである。


神さま隠れんぼが好き。シャイなのかな。

神を尋ね求めることを、「左右をしてこれを求む」という。
左は左手に工の形をした呪具をもち、
右は右手に祝詞を収める器の形である(サイ)をもつ。


このサイと呼ばれる解釈が白川さんの字書における面目躍如であり、
漢字の成り立ちを想像する上での革命をもたらした。

左右とは神に対する行為であり、左右颯颯(さつさつ)の舞とは、
神のありどを求め、神を楽しませる舞楽である。
左右の字をたてに重ねると、尋となる。


本当?書いてみないと分からん。
(金文が見つからないので我慢して)篆書体だとこう。

おお、確かに左ー>と右ー>を縦に並べると・・・・・・
尋ねるという漢字になっている!おもしろい。

隠れたる神という観念は、神はもと識られざるもの、
幽暗のうちにあるものとする怖れを示すものであるが、
それはまた隠れるという字の字形構造のうちにも
あらわれている。


神がシャイなのではなく、人びとが畏怖するのだ。
次は隠の字を解体をしてくださる。

左偏の「こざと」とよまれる部首字は、
山をたてざまにした形とされているが、
それは神わざとしても不可能なことである。


冗談っぽく言いながらも完全にジャブである。
いきなり既存説を大胆不敵に疑ってかかる。

その形はもと、神が天上に陟(のぼ)り降りする神梯であった。



この左側は、すなわち神さまのはしごなのだそうだ。
そう言われると、そう見えてくるから不思議。

しかし天上にある限り、神は人と交渉をもつことはない。
人びとの身辺にある神は、その神梯を陟降(ちょくこう)して、
地上に降り立って住む。それも人びとの住むすぐ近くに
「み身を隱したまうて」住むのである。
その神梯の前に神を祭ることを際という。
際とは神人の際である。


神は身をやつして人々のすぐそばにおわす。

神が隠れ住むとき、その隠れ蓑にあたるものが、
呪具の工であった。隠れるときにも尋ねるときにも、
その呪具が必要であった。その呪具の上下に
手をとりそえて、これで填塞(てんそく)したなかに、
神は隠れたまうのである。それを塞という。
塞は洞窟の入口に、四個の工をおいて、
これを塞ぐ意象を示すものが、字の原形であった。


またでてきた呪具の工。神もお使いになるらしい。

隠の本字は隱である。
隱れるとは、神が呪具の工によって
「み身を隱したまう」形である。


しかし、我々は簡体字を導入したことで、
隱れるための工を神から奪ってしまった。

これは字遊びである。字遊びは、かつては
神聖な神の、自己顕現の方法であった。
いまや神と人とは、その位置をかえている。
現代の文明における遊びのように、それは
堕落し果てた虚妄の遊びである。


まじめな遊びなのである。先生、怒ってる。

遊とは、この隠れたる神の出遊をいうのが原義である。


出遊で思い出すのは、シッダールタの四門出遊
こちらはありのままの現実を見定めに行くという
重く慎重な意味を担っていることばだった。
でも、暗いというか達観、あるいは諦念のような
ニュアンスを伴ったある種憂鬱なものではなくて、
それら全部は仏さまの専売特許だから任せておけ。


そっちとは対照的に、神の遊びはもっと底抜けに
明るくばかばかしくて、ちゃめっけのあるもの。
地上が見たくてするする天からはしごを降りてくる。
せっかくお隠れになっていても、人々が左右をして求め
盛大に舞楽を催していたら、気になってしょうがない。
そいでついつい浮かれて出てきてしまう、それが出遊。
つまり神における人間性の発露が遊びなんじゃないか。
いや、人間における神性の発露こそが遊びかもね。