まなざしに対する横やり

哲学熱が冷めやらず、ハイデッガーの「存在と時間」を読む。
原語で取り組めれば無難なところを、ひ弱なので訳本に頼る。
二外はフランス語だったと胸を張っては言えないけれど、
少なくともドイツ語を選択しなかったという言い訳はある。
ヤイコが仏文の出で、卒論がAlbert Camusだと知ったのと、
曲の途中でときどきフランス語でささやくのがあったりして
なんて言ってるのか気になったから、というだけのことなんだ。
そのくせヤイコが好きなカミュの「ペスト」は読んでない。


好きな人、もしくは嫌いな人の評価が自分自信の評価と
どのように関係し、どんなときに感情が安定だと言えるか
を説明するものとして、社会心理学のバランス理論がある。
簡単のため、評価は好き嫌いの一方しか取らないとすると、
ハイダーの理論によれば、3者の関係が安定になるのは、

  • 好きな人と意見が一致するとき
  • 嫌いな人と意見が分かれるとき

の2つであると説く。
Heider, F. (1946)


しかし、ニューカムはこれとは違う主張をして、

  • 好きな人と意見が一致するとき
  • 嫌いな人の意見はどうでもいい

ときに安定な関係であると考えた。
Newcomb, T. (1953)?


ところで、自分、他者、対象が与えられたとき、

  1. 自分から他者への「感情」
  2. 他者から対象への「感情」
  3. 自分から対象への「感情」

の3種類のベクトルを考えることになり、
そのそれぞれに+/−の符号が付くことになる。
よって、全部で8通りの可能性がある。


その後、カートライトとハラリーは、
ハイダーの意味での安定性というのは、

3つの矢印のなす三角形の各辺に付いた符号の
かけ算の結果が+のときに安定

と表現できることに気が付いた。
ニューカムの理論だともうすこし複雑になる。
Cartright, D. and Harary, F. (1956)


さらに、登場人物が複数の場合に拡張され、
分離可能性と集群化可能性などが帰結される。
社会ネットワーク理論へと発展して行くらしい。


と、ここまで説明しておきながら何だけれど、
ハイダーにしろニューカムにしろどちらの提案も、
好きな人の意見と自分の意見が一致するときに
感情が安定であると主張している。


評価や意見が明示的に分かるときのみ有効だし、
こんなトイモデルで何が分かるのかはさて置き、
嫌いな人の評価を無視できるかどうかというのは
微妙なところで、どうでもいいと口では言えても
きっと心のどこかで気にしてしまうんだろう。
という意味では、人間の弱さをついている。


対象は別にモノでなくて人でもよいので、
3者間の関係でもよい。でも、どろどろしそう。
一方向の評価でなく、双方向に拡張するとか。
他者から自分への評価について同じような理論を
作ったら、どれが安定になるだろうか。


これを拡張した内容について学んだ時のこと。
学部生のときに、文系発展ゼミを取ったら
受講者が一人しかいなくて、担当教官と毎回
マンツーマンでゼミをやることになった。
教室に行く必要もないからということで、
教授室で二人っきりで新しい論文を読んだ。
だいたい、すぐに着いていけなくなるので、
途中からは先生が解説しながら読み進める。


朝一の開講だったので、毎回がんばったのに、
先生が大遅刻したことがあって、授業の半分くらい、
つまり45分以上もずっと寒い廊下で待たされた。
何度ももう帰ろうと思ったのになぜか待っていた。
やっと先生が落ち着き払っていつもの無表情で現れ、
それから荷物を置き、熱いコーヒーを淹れてくれた。


ふつうは、人間味のあふれるという形容をするけれど、
あの人に限っては人間味のあふれないと表現したい。
何も冷徹だと言いたいのでなく表面に現れないだけのこと。
だから、人間関係や感情のモデルを研究していたのかも。
ただ一度だけ、新しいゲーム(ゲーム理論のではなく
子どもから大人まで遊べるゲーム)を開発したと言って、
二人で対戦して遊びに興じた。そのときは微笑んでいた。
あれから特許を取ったのかな。口外禁止と約束したので
どんなゲームだったかは誰にも言わずに守っている。


最後に授業評価アンケートというのがあって、
回収して提出するのも学生が行い、誰が回答したのか
分からない仕組みになっているというふれこみで、
秘密が守られるというアンケートを書くことになった。
しかし、受講者数一人では実にバレバレではないか。
それでも甘い評価はつけずに、厳しい採点をした。
遅刻されたことの不満も自由筆記欄に書き付けた。
もちろんその用紙は自分で提出先に持って行った。
集計結果(集計するまでもない)は後で届いたはず。
それを見て、あの先生は何を思っただろうか。
きっと得意のポーカーフェイスで目を通しただろう。


さて、ハイデッガー(の話などとっくに忘れていたが)、
中公版は最新の研究に基づき新しい訳だが3分冊で高い。
ちくま学芸文庫版は読みやすく、ハイデッガー自身に
問い合わせて完成させたというから信頼できると思い、
後者で読むことにした。二分冊なので一冊が分厚い。
存在について突き詰める確固たる意志が篤くてのぼせる。


今日、目を通した論文。

Rajesh P. N. Rao and Iravatham Mahadevan, et al.
Entropic Evidence for Linguistic Structure in the Indus Script.
Science 324, 516-519. (2009) (Abstract), (Full Text)


インダス文字は言語なのか?いや、シンボルや紋様なのか?
という長年の論争に光明をもたらすかもしれない方法論の提案。
たとえ解読できなくても、統計的構造を調べることはできる。
条件付エントロピーを計算するというシンプルな手法だけれど、
こういう使い方があったのか。ネットワーク構造を調べるには
もっと高級な数学が必要かと思ったのに、単純化できるとは。
複雑ネットワーク理論開花以前のと言ったら怒られそうだけど、
(SOMではZipfの法則も調べているからちょっと言い過ぎだ)
マルコフ連鎖の遷移確率を計算するだけでこれが言えるなんて。
気になったのは、データサイズが小さいと単純にエントロピー
計算しても推定を誤るから、smoothingが必要と書いてある。


筆頭著者のRaoという研究者これ編纂した人だった。
タイトルを見ただけで怖じ気づいてるようじゃだめだ。
サヴァティカル中にインドでこの仕事をしたらしい
ベイジアンも有用な場合がある。こういう使い方をする分には。


言語の構造を知るということと、言語を理解するということは
同じことを意味しないということは重要なことではないか。
生成文法オートマトンで遊んでも言語を分かった気がしないのは
そういうことと関係している。と言い切るには論理の飛躍があって、
統計的構造と詳細な構造は一貫性はあれどそれぞれ別物だろうから、
本質が細部に宿ることを信じるのもいい。埋もれない注意は必要。
ただし、精しくなることが近づくことかどうかはまた別の問題で、
遠くからしか見えないことと、近くからしか見えないことがある。
意味がどこから来るのかを思案するときにふらふらするのは、
どの距離から見定めようとすればいいか迷って運動してるから。
言葉を掴み取ると分かった気がするのかもしれないけれど、
そのあとどうする。握りしめ続けるのか、また放すのか。

言葉を手放すことと突き放すことはちがう。


昨日、アート系の人が、言葉を手放すとはどういうことか
としきりに問いかけていて、いろいろ考えてしまう。


言語以前にはもう戻れないとして、言葉がたゆたう中でしか
思考できないという制約のもと、言語以後に生きるしかない。
でも、その制約が閉じていないということを知れば少し楽。