手と指からモノイダルモノイドまで

この前ジャーナルクラブで紹介したHaggardらの論文にAutotopagnosiaに
関する言及があって、こういうのがあったので目を通したりしていた。
身体表象モデルのところで引用されてるSiriguという名前を覚えておく。


指の身体構造表象(指が何本あるかとか、指がどの順番にあるか)なのか、
number codingに関することなのかを区別できるかの議論の論理が不明。
Numerical coding戦略を使えないintensity judgment taskの結果が

the view that the putative secondary representations were somatic rather than simply numerical.

を補強すると著者らは主張しているけれど、ここのところが分からない。


その前のところで、

Indeed, finger gnosis and number representation are generally strongly linked.

とも言っていて、Gestmannの論文を引用している。


Gerstmann's Syndromeは左頭頂葉の角回領域の損傷で生じ、
手指失認、左右失認、失算、失書の4つ症状を主に併発する
この症例から指と数の表象とが深く関係(少なくとも場所は近いか同じ?)で、
抽象化するときに同じような経路を使っているのかもしれない。
数をcodingするときに身体から切り離せないということかな。


こんな主張をしている論文があった。

We suggest that processing numerosity is a distinct process from
processing analogue quantity, whether extended in space or time,
and that an intraparietal network connects objects’segmentation
to the estimation of their numerosity.

アナログな刺激よりも離散的な刺激のときの方が両側のIPSが賦活した。

Last authorの人はこれ書いた人らしい。
読んでないからなんとも言えないけれど。


Number representationと言うときのnumberとnumerosityは
日本語だと「数」のことだから、どちらも同じことを指しているのかな
と漠然と思っていたけれど、使い分ける人もいると知った。

数量の定義(2つ)

  1. 連続量:分割不可能、一般的に言う「量quantity」
  2. 離散量:分割可能、一般的に言う「数number」

数はことばで表現されることが多いために、
数という用語にことばの存在を暗黙に仮定してしまう
心理学では、たとえ数をことばで表現できなくとも、
それに相当する行動や反応を示す場合には数を認知できると考える
この場合の数をnumerosityやnumerousnessと呼び、
numberとは厳密に区別することもある
(Davis & Perusse, 1988; Gelman & Gallistel, 1978)

(小林哲生 乳幼児における数量認知能力の発達)
(いろんなモデルがあるんだなあ。ちょっと感心。)


同じ日に野澤くんが紹介した論文が数表象に関するもので、
(数表象と空間認知が関係する:首振り実験とか興味深かった)
テーマがややかぶってるなあと思ったのはもう1週間前なのか。


空間的な(数)量と時間的な(数)量の関係ってどうなってるんだろう。


指と数のことを考えていたら、いつも読んでる檜山さんのブログで
指を使った足し算と interchange law
という記事を見つけた。


そういえば、子どもの頃、計算するときはいつも手を使ってた。
大きな数字同士の計算で筆算をするときには、繰り上がる数字を
小さく書く方法が嫌で、左手の指を使って覚えるやり方をしていた。
片手だとふつうは1から5までしか表せないけれど、6から9のときは
指の間の開き具合を変えて、親指から順番に残りの指から大きく離して
6以上の数字を表現していた。だからいつも算数の時間なんかに
計算するときは机の下でこっそり左手の指を開いたり閉じたりして
変な動作をしていたに違いない。そのくせはずっと抜けなかった。