シザーハンズの手は何を意図する

Intentionつながりで調べていたら、Rizzolattiの論文が出ていた。
この前のは自分で感じる意図で、こちらは他者の意図理解について。

Intention Understanding in Autism.
Boria S, Fabbri-Destro M, Rizzolatti G., et al.
PLoS ONE. 2009;4(5):e5596.(Full text


たとえば、コップを握るというような他者の運動行為を理解するとき、
我々はその行為がどのように行われるかと置かれている文脈とから、
その行為のgoal(握る)とintention(たとえば、飲むために握る)
という二つの情報を抽出している。


これらは言い換えれば、他者のある行為を読み取るには、

  1. その人は何をしているのか(what)、および
  2. その人はなぜそれをしているのか(why)

という二つの側面を理解する必要があるということ。


背景は、さまざまな脳計測(EEG, MEG, TMS, fMRI)では
ASDとミラーシステムとの関係性が示唆されてきたのに、
ミラー機構の標準的解釈において、その機能不全から予測される
他者の運動行為のgoalを認識できないというふるまいが見られず、
脳計測データと行動レベルとの乖離が問題になっていた。


このギャップを説明するため、行為理解における混同、つまり、
"what": 観察からすぐに(immediate)得られる知覚データと、
"why": 意図読み取り機構に基づいた未来の予測(anticipation)
とを区別していないことに起因すると提案する。


前者をgoalと呼んで、後者をintentionと呼び分けようというわけ。
日本語にしてしまうと、目的と意図では何が何だか分からない。


ASDの子どもは"what" (goal)の理解はできるのだけれど、
"why" (intention)の理解に困難を伴うのではないかという仮説を
TDの子どもと比較して行動実験で示したのが本論文。


まず、オブジェクトの写った写真を見せて「これは何?」
と聞き、次に、そのオブジェクトと手が写った写真を見せる。
この2枚目の写真が3通りあって、そのオブジェクトに

  1. 触っている("touch" pictures)
  2. どこかに移動させるときのように握る("place" pictures)
  3. 普段使うときの握り方で握る("use" pictures)

そして、これは何をしてる?触ってる、それとも握っている?
と聞く。それをビデオで記録して、正解かどうかカウントする。
後の2条件を"why-place"課題、"why-use"課題と呼ぶ。


結果は、ASDの子どもは"why-use"課題には同じくらい正解するけれど、
"why-place"課題でTDの子どもより有意にエラーが多かった。


実験2では、オブジェクトと他のオブジェクトとの
関係性から意図を推定できるかどうかを比較する。
まずオブジェクトの写った写真でこれが何か聞くまでは同じ。
二枚目の写真にはオブジェクトを使うときの握り方で握り、
その手のそばに別のオブジェクト(群)が置かれている。
そのオブジェクトを

  1. 移動させる意図のもの(例:入れ物の近くでハサミを握る)
  2. 使う意図のもの(例:紙の近くでハサミを握る)

という2つの条件で、なぜ握っているの?と聞く。
前者を"why-place"課題、後者を"why-use"課題と呼ぶ。


今度の結果は、"why-place"でも"why-use"でも
ASDとTDの子どもでエラー率に差が出なかった。


実験1と実験2の違いは、運動の情報だけか、
他のオブジェクトとの関係性の情報があるかどうか。
ASDの子どもが実験2の"why-place"課題はできたけれど
実験1の"why-place"課題ができなかったということは、
その行動のgoalは正しく理解することはできるのに、
運動の情報だけからその人の意図を読み取るのが困難
ということを示唆する。と著者らは言いたいようだ。


Rizzollatiのグループだから、ASDのミラーシステム説を
なんとか擁護しようという立場なのはなんとなく分かる。
それで、ハサミを握った手が、仕舞われるべき容器の近くか
切られるべき紙の近くにあるかの違いによって文脈を指定する
のではなく、そのような他のオブジェクトとの関係性なしに、
ハサミに対する握り方(仕舞うときと切るときの握り方)
の違いのみからその運動意図を推定できるかどうかが
ASDの子どものふるまいを特徴付けるのではないかと言う。


Intentionとcontextを考えるときに、どのレベルのcontextから
推定されるintentionなのかを区別しないといけないのだろう。
道具となりうるオブジェクトがあるだけでも、その道具が
どのように使えるかという意図を何となく想定できるし、
それだと、アフォーダンスに近い意味になると思うわけで、
オブジェクトを「道具」として認識した時点で何かが
立ち上がっている。その次に、オブジェクトに手が伸びていて、
それを使うときの握り方と運ぶときの持ち方でそこから、
使おうとしてるのか運ぼうとしてるのかの運動性が判断できる。
さらに、そのオブジェクトが使われる対象、運ばれる先が
明示されていればよりはっきりとした意図を読み取れる。
という感じで、段階的に意図推定のもっともらしさが変化し、
その途中段階にミラーシステム系も絡むはずだよね、って。
ASDとの関連性はともかく、その点は間違いないのだろう。


でも、こんなにシンプルなタスクでも区切れる、のか、
シンプルすぎて本当に意図したこと(著者の思惑の意味ね)
を主張できているのかどうかが、よくわからないなあ。
論文を読むときは、少なからず、著者ら(しかも複数!)の
意図推定が必要になると思うけれど、それに失敗した場合、
伝わらなくなることがあって、そうやって取りこぼされて
しまったものが何であるかを気にかけておかなくちゃ。