なにものにでもなれると信じること

だいぶ前に買った養老孟司の「かけがえのないもの」を読み終わった。
薄い文庫なので一気に読もうとすればすぐ読み終わってしまえるけど、
こういう本はじっくり読むべきだとはやる気持ちを抑えゆっくり読んだ。


養老さんは手帳に書かれた予定はすべて現在であるとおっしゃる。
ひっくり返せば、未来というのは決まっていないから未来なのであって
予定が詰まっていると何をするかわからない時間がなくなってしまう。
時間が私をとらえて離さない理由は、分からなさ加減に由来する。


カレンダーの余白は贅沢なのだとふだんは気がつかない。
でも、時間を持てあますというのはどうして悪い意味なんだろう。


昨日はゲストで行動薬理学の先生がいらっしゃった。
直前に読んだ5年後の自分に会いに行く話(これ)がおもしろかったので
もうすこしあさりで聞いてみた。ああいうことは信頼関係がないと
できないんだよねと先生は複雑な表情でおっしゃった。
薬よりもセラピーが効くというとき、言葉というか会話が
精神状態とか心的状態に影響するというのは、薬が神経基盤に
物理化学的に作用するというのほど分かりやすくないけれど、
何らかの効果があるとしたらそれってどういうことなのかな。


認知実験で被験者に与えるinstructionも言葉であって、
その特殊で極端な例がたとえば催眠とかだとすると、
実験者が被験者に実現して欲しいと望むある状態に「誘導」
しているという点では、心理療法とよく似ている。
それで自由を制限したり、自由を回復したりできる
というのがすごく不思議でどうしてできるんだろう。
逆に、被験者が実験者の意図を汲むことができないと
大抵その実験が失敗するのも、治療がうまくいかない
というのと対応付けられるかもしれない、


催眠のかかりやすいことの進化的な意義は何だろうか、
と前にゼミで催眠が紹介されたときに話題に出てた。
歴史的には、古くは呪術者やあるいは為政者の言動に
疑問を持たず恭順できた人の方が危険を冒すことなく
コミュニティーの結束を高め安定したのかもしれない。
でもそれだと共感能力とどう違うかよく分からないけど、
信心深さとかとは大いに関係するような気がする。


催眠とどうつながるかはともかく、言霊とか祝詞とか、
言葉(や名前)に力が宿ると考えるいろんな風習は、
言葉が力を持つと信じたから生まれたはず。
何かの原動力になる理由はよくわからないけれど、
言葉が意味を担い、意味を持っているのは確かで
科学的にその「意味」というのが説明できないから
怪しげな感じを払拭できないのか、それとも
その怪しげな感じこそが原動力になるのかな。
科学にしたら途端につまらなくなりそう。


これをこうして、こうやってください、と
被験者に教示すると、被験者がその通り動く、
というのはあまり深く考えずに行われてて、
言葉(でなくてもいいけど)で指示を伝えると
相手が反応(行動とか脳活動とか)を返す。
というのはよく考えてみるとよく分からない。


実験者はこう言ったらこうしてくれるはず、
被験者はこう言われたんだからこうしなきゃ、
とそれぞれに信じてて、ある意味信頼関係が
成立したら実験がうまく行くと言えなくもない。
そのときのtrustworthinessってなんだろう?
結果が出たら問題ないと判断してしまうけど、
変な結果が出て説明できないときだけじゃなくて
うまく行ったように見えるときにも本当に
見ようとしていたものがちゃんと見えている
ってどうやって確信するんだろう。
操作的にきちんと操作して得た結果だから
それ以上は考えないし、議論で考察したから
問題ないということで済むんだろうか。


だんだん支離滅裂になってきた。


5年後の自分に会っていろいろ話を聞く話」は、
もしできるなら自分だって会ってみたいと思う。
どこかの川べりに行くと佇んでいるなら苦労しない。
それより、5年後の自分を想像できるかどうかの方が
よく考えてみるべきで、もちろん10年後、20年後、
ずっと先のことでもいいけれど、意外とすぐ来そうで
かなり先でもありそうな5年後を思い描くのは難しい。
その難しさが養老さんの言う未来の定義だと思うけど、
生きていれば到達できるという意味では到達可能なのに
どうしてこんなにいつまでも未定未詳でいられるのか。


自分自身への先見性のなさは、自信のなさではなく
なにものにでもなれると信じることのうらがえし。