≪そこ≫(「現」)において

日付を一日勘違いしていた。ああ。
カレンダーも時計だってことを忘れてた。

世界=内=存在ということによって本質的に構成される存在者は、
みずから各自の「現」(「そこ」)を存在している。
耳馴れた語義に従えば、「そこ」(「現」)という言葉は、
≪ここ≫と≪あそこ≫を示唆する。
≪ここにいる私≫というときの≪ここ≫は、いつでも、
ある用具的な≪あそこ≫からーーその≪あそこ≫への
開離的=布置的な配慮的存在という意味でーー了解される。
現存在にこのような形でその「ありか」を定めている現存在の
空間性は、それ自身は、世界=内=存在にもとづくものである。
≪あそこ≫は、世界の内部で出会うものごとの性格である。
≪ここ≫や≪あそこ≫が可能であるのは、ひとえに、
ある≪そこ≫(「現」)においてである。
すなわち、≪そこ≫(「現」)の存在としてすでに空間性を
開示している存在者が存在するときにである。この存在者は、
そのもっとも固有な存在において、閉ざされていないという
性格を帯びている。≪そこ≫(「現」)という表現は、
この本質的な開示態を指そうとするものである。
この開示性によって、この存在者(現存在)は、
世界の現=存とともに、おのれ自身にむかって
≪そこ≫に存在しているのである。

ハイデガー存在と時間』第五章第二八節


ぱっと開いたページにあった言葉。もう全然わからないけど、
雰囲気はなんとなくニュアンスというかイメージというか
意味が分からないけれど伝わってくるものってなにもの?