哲学的ゾンビは鏡の中に他人を見る

リゾラッティの『ミラーニューロン』を読み終わった。
読み始めは取っつきにくくて難儀したけれど、
我慢して読んでいるうちにイメージがつかめて来て
そうか、そう言うことだったのかと言うことしきり。
後ろについている解説がこれまたすばらしい。


一番気になった部分を引いてみる。

Finally, the relation between mirror mechanisms and
control systems provides a clarification of certain aspects
connected to precocious imitation in new-borns or pseudo-
imitative behaviour in adults. An interesting observation
(although sometimes contested) reveals that just a few
hours after birth babies are able to reproduce certain mouth
movements, such as tongue protrusion for example, that
their parents make, even though they have not yet seen their
own face [15]. As Andrew Meltzhoff said, 'there are no mirrors
in cots!' but notwithstanding this, babies appear to be capable
of this form of imitation. A possible explanation may be that
they already possess a mirror neuron system, albeit rather
rudimentary, and that their control mechanisms are still
weak, as is also suggested by the low degree of myelinization
and consequent modest functionality of the frontal lobe.


[15] Meltzoff and Moore (1977).

最後に、ミラーメカニズムと制御システム
の関係は、新生児の早発性の模倣や成人の疑似
模倣行動と関係する特定の面を解明してくれる。
(異論はあるものの)ある興味深い観察結果によれば、
赤ん坊は誕生後ほんの数時間のうちに、親が見せる、
たとえば舌を突き出すなどの口の動きを、自分自身の
顔をまだ見たこともないのに再現できるという[15]。
アンドルー・メルツォフが言ったように
「ゆりかごの中には鏡はない!」にもかかわらず、
赤ん坊はこのタイプの模倣ができるらしい。赤ん坊は、
未発達ながらもすでにミラーニューロン系を持っており、
髄鞘形成の度合いが低く前頭葉が十分に機能していない
ことからも想像できるように、制御メカニズムがまだ
弱いからという解釈が成り立つ。


自分の顔を見たことがないのに模倣ができる
というのはどういうことなのかと駒場
faculty clubでちょっと議論した。


リゾラッティ本のこの前の部分にはEchopraxia
の話が載ってて、Wikipediaによれば、

Echopraxia is the involuntary repetition or imitation
of the observed movements of another. Even though it is
considered a tic, it is a behaviour characteristic of
some people with autism, Tourette syndrome, Ganser syndrome,
schizophrenia (especially catatonic schizophrenia), some forms
of clinical depression and some other neurological disorders.

日本語では、反響動作(症)と言うらしい。
身体が勝手に真似して動作してしまう。
その原因の一つが、前頭ー頭頂のミラーシステム系の
回路の抑制が上手く働かないからだと推測する。


それが成人の場合で、新生児模倣については、
前頭葉の抑制が上手く効かないからじゃないかと。
前頭かどうかはともかく、自分の意志で模倣する
というよりは、なぜか勝手に模倣してしまう
のだとしたら、一つの可能性は抑制の失敗だろう。
でも、どうして抑制されていないと模倣するのが
デフォルトになっているのかがよく分からない。


新生児に自意識がなくて、automaticな模倣だとしたら、
哲学的ゾンビ問題に抵触しないのかなと言われて戸惑った。
物心がつく、というのと自意識を持つというのとは
また別のような気もするし、それと、記憶に残っている
かどうかというのもまた違った分類かもしれないけれど、
ともかく、もし新生児に自意識があったとしたら、
前向性健忘(anterograde amnesia)に似た状態として、
どんどん流れ去っていく自己のようなものとしてなら
あってもいいんだろうか、と思ってはみたものの、
ある事柄をどれくらいのduration、つまりあるΔtだけ
覚えていられるのかということを考えたとして、
Δt→0の極限みたいなものを取ったときに
どのあたりまでを自意識があると言えるだろう?
よく分からないけれど、仮にΔt=0だったとしたら、
ある表象が立ち上がっている時間がゼロなわけだから、
知覚(認知)しているとは最早言えなくなっていて、
それをして哲学的ゾンビに縮退していることになるのか。
でも新生児が哲学的ゾンビだなんて考えたくない、
気がするけど、だったらどんな自意識を持つのだろう。


ちょっと話が逸れるけれど、相互作用同時性によって
心理的時間がつぶれると言うときに、実はそれに加えて、
そのつぶれた時間がある実時間幅だけ持続する、
ということが起こらないとクオリアが立ち上がらない
ような気がするんだけど、そんなことないんだろうか。
えっと、心理的に一瞬につぶれる実時間の幅と、
その表象を立ち上げているdurationとしての実時間幅は
明らかに別物で、ある時間幅を持ったものがつぶれながら
ずりずりずりとシフトして行くシフト幅があって、
このシフトが連続的なのか離散的なのかに興味がある。
それが離散的なら、典型的な時間スケールが二つあることになる。
心理時間がつぶれても、全部の時間がぺしゃんこにつぶれないで
実時間を経過させるにはどうするかというペンローズの宿題
(ってどうなったんですか?)はそのことを言ってるのかな。
そっか、でもNeuron Doctrineを仮定すれば、発火していない
状態でいくら実時間が経過してもそれは意味がなくて、
実際に発火した時間間隔だけが意味をなしてくるのなら、
ずりずりずりというシフトも少なくとも発火が1回起こるごとに
しかシフトできないから必然的に離散的になるのかなあ。


閑話休題。鏡を使わなくても自分の身体が「わかる」、
もうすこし言うと、たとえば、母親の唇や舌と自分の唇や舌、
などの身体部位のマッピングがほとんど最初から出来上がってる、
もしかしたらinstinct(という単語を出すべきかは微妙)とか?
でも、生まれてすぐに母乳を飲めないと生きていけないから
口の周辺についてはある程度元から作り込まれているのかな。
もちろん動かし方はある程度学習するんだろうとは思うけど。
だって、手とか足はどうやったらどう動くかも知らなさそう
なのだから、口の動かし方だけは知ってるって何だか変かも。
仮に知ってても、自分の口は見たことがない状態にあって、
なんで自分の口に対応する母親の身体部位がどこかを
母親の身体を見ただけで、口がどこかが分かるって変だ。
新生児のできる行動を母親の方が真似をしているだけ
とかいう批判をどこかで聞いたことがある気がして、
やっぱりその通りなんだろうか。実験者の贔屓目なのかな。
どちらにせよ、模倣(に見えるもの)には鏡が必要ない
ということは考えてみれば当然だけど、新鮮だった。
うーん、この段落の「自分」とか「知ってる」の主語とか
潜在能力はともかく、乳幼児というのは行動だけ見れば
限りなく動物に近い存在だと思えるけれど、だから、
じゃあ動物にも(自)意識があるのかという問題と
ほぼ同型なのは、根本的なネックが同じだから。


乳幼児は自己と他者が未分離で一体感があり、
ラカンとかが言うところの鏡像段階に至る前の
万能感にあふれる時代であって、たぶんその意味は、
特に母親と自分が区別されないので、母親にできる
ことは取りも直さず自分ができることでもあって、
だから何でもできるという幸福な時間を過ごしている。
などと説明されても、本当かな、胡散臭いなあと
思うのが関の山だったりするけれど、だって
自分が確立されていもしないのに、何かができる感じ
というかagencyを感じるみたいなことってある?
手足とかがどう動くかとかもよく知らなそうだから
agencyとかいうレベルじゃなくて、それ以前の
どんな身体パーツを持っているかというownership
に関することで、そういう獲得する順番があるのか
どうかはよくわからないけれど、自分が何かを
持っているのが先で、それを自由自在に動かせる
ように学習していくならそうなのかなと思う。


そういうことを言ってるわけじゃないのかな。
母親を操って何でもできるのはある意味事実で、
だけどそれは何も母親に限定したことではなくて、
精神分析では違う役割を与えられる父親しかり、
そもそも、世界全体が渾然一体となっていて
自分の輪郭がぼやけているような状態だったら
すでに自分の形が出来上がったと信じてる人の持つ
固定概念を無理矢理外挿して当てはめようとしても
それってどうなのかな、説明たり得てるのかな。
自分の身体と周囲の境界がズレたりぼやける
というのは、感覚遮断タンクとか体外離脱体験
(Out-of-Body Experience, OBE)みたいなもので
ある程度、思考実験だけじゃなくて実体験も
身体の閉じこめから解放されるような(全然違うけど)
遍在とまで行かなくてもズレるのに似てる感覚かも、
というのはあくまで想像なのでいい加減な推測。
ミラーテストに合格する前のことを思い出したい
と思っても、ほとんど定義からしてそれが無理。


なんかむちゃくちゃなこと書いてるなあ。


動物は模倣するのかという話になったときに、
日本語に猿真似という言葉があるけど、
実際のサルは真似をしなくて、英語だと
copycatと言って、子猫が親猫の真似するから
そう言うんだと野澤くんが教えてくれた。
それから、写真に写った自分の顔に何か
違和感があってphotogenicだと思えないときに
鏡像変換するだけで自然に見えるようになる
ことがあると言う話を聞いたりもした。
写真は正像で、鏡はもちろん鏡像だから、
見慣れた鏡像がいいと思う(単純接触効果?)。


模倣と共感とか、ミラーシステムとの関係とか、
鏡像座標変換という以上のもっと深遠な意味とか
脳の何処にあるかも重要かもしれないけれど、
概念的に、いったい何と何を映す鏡なのか、
たとえば、クロスモーダルだと鏡のメタファーが
適切なのかどうかもよくわからないわけだし、
それでもなお、よく知っている何かに喩えないと
理解できないか、少なくとも納得できないのかな。


帰りの電車の中でdouble touchのダブルの意味が
やっとはっきり理解できて、別に鏡がなくても
自分が「みえる」というのはめっちゃすごいやん。


哲学的ゾンビにミラーテストをやってもらったら、
なんか変なことが起こる気がしたけど気のせいかな。
ただ何事もなかったかのように顔についたマークを
剥がして、事なきを得ることができるだろうか。
じゃあ、哲学的ゾンビのある年齢までの乳幼児も
正しくミラーテストに不合格するんだろうか。
哲学的ゾンビも発達するなら自意識を獲得して
ゾンビなんて物騒な存在はやめればいいのに。