もちろん箱を開けないことだってできたスタバのマグで

日記を書けなくなるのもバートルビー症候群だろうか
とふと思う。そんな高尚なものではないのに。


『白鯨』で有名なハーマン・メルヴィルの作品に
"Bartleby, the Scrivener"というのがあって、
それに因んで、エンリーケ・ビラ=マタス
バートルビーと仲間たち』という小説の中で、
あるときを境にぱったり作品を書かなくなる
重篤な文学的症状をバートルビー症候群と名付けた。


その本の中ではバートルビーの仲間たちとして
たくさんの作家のエピソードが綴られていて、
知らない名前がたくさん出てくるらしいのだけれど、
(あまりに知らなさすぎて恥ずかしくなるくらい、
というより、まだ読んでいない本に言及するなんて!)
たとえば、『ライ麦畑でつかまえて』で知られる
(春樹訳よりも、野崎訳の方がどうしても好きだった。
フィービーは、やっぱりモカシンの靴を履いてなきゃ。)
サリンジャーは、いくつかの短編とグラース・サーガ
ものしてから一切作品を発表しなくなって隠遁した。


グラース家の物語は『ナインストーリーズ』の中の
「バナナフィッシュにうってつけの日」にシーモアが、
コネティカットのひょこひょこおじさん」に弟のウォルトが、
「小舟のほとりで」に妹のブーブー(愛称)が出て来ていた、
ということをやっと知った。というより、この短編集だけでは
それぞれの人物の姓は出て来ないので連綿と続くサーガの
一部だということまでは分からないので仕方なかった。
ともかく、タイトルの付け方に一癖あっておもしろい。


『〜と仲間たち』とは別に、イタリアの哲学者(思想家)の
ジョルジョ・アガンベンが『バートルビー 偶然性について』
(をちょっと前に気になっていたのを読んでみたりしていた)
バートルビーを紹介していて、しないということによる
世界の否定、拒絶ではなく、むしろ肯定的な解釈として、
することもできるが、しないこともできるという意味で
潜勢力(potentia)という言葉を導入している。
もし自由であることを担保する防波堤を求めるならば、
拒否権(veto)よりもそっちの方が断然、響きがいい。
志向性の可能的な世界で夢想する自由までは奪えまい。


そもそもの"Bartleby, ..."自体の邦訳はいくつかあって、
上のアガンベンの本にも訳が載っているのだけれど、
柴田元幸の手になる全訳、
『書写人バートルビー ―― ウォール街の物語』
http://www.campus.ouj.ac.jp/~gaikokugo/meisaku07/eBook/bartleby_h.pdf
放送大学のページにPDFで置いてあってこれを読んだ。
順番としては出典を最後に読むというのも妙だった。


法律事務所で公文書を筆写する勤勉なバートルビー
書写以外の読み合わせやちょっとした雑務を
「そうしない方が好ましいのですが」
("I would prefer not to.")
と言ってにべもなく断り始め、しまいには
すべての仕事を同じ言葉を繰り返して拒み、
周りは翻弄され、次第に歯車が狂い始める。
バートルビー以外のあまりに人間的な
登場人物たちの動揺の仕方が興味深い。


話としてはカフカの『断食芸人』に似ている。
と言っても、メルヴィルの方がひと時代前で、
カフカやもちろんベケットよりも前に不条理性を
鋭く描いたのはもっと知名度があってもいいはず。
抽象性が高くなく、象徴的でもなく、具体的に
言いようのない不安をあおり取り乱させる。


暗黙の前提として、することになっている
という思い込みが破られた極度の齟齬感と、
しないことに理由がない不自然さと同様に
普段見落とされる、することの理由の不在性、
しないこともできたのだという気付きが、
それでもなお、しないでいられるわけがない
という常識の縛りから脱することが出来ない
苛立ちとして折り合いのつかない疎外感。


バベルの図書館シリーズを編纂したボルヘス
バートルビーを選び出してその中に納め、
その序文でメルヴィルの作品に共通するテーマは
「孤独」であると紹介したとかで、納得。
アガンベンが落ち着いて、あえて肯定的に捉えた
ということはものすごいことに思えた。


ところで、シアトル系コーヒーチェーンのスタバは、
メルヴィルの『白鯨』に登場するコーヒー好きの
一等航海士Starbackと、シアトル近くのレーニア山に
あったStarbo採掘場とをかけて命名されたんだって。
意外と身近なところに潜んでいたメルヴィルの影響。


シカゴのオヘア空港で帰国の朝、スターバックス
ハロウィーン仕様のパンプキンスパイシーラテを飲んだ。
早起きして冷えた身体を温めてくれてありがたかった。
そのときレジのすぐ横にスタバのマグが売ってたので
自分へのお土産にうってつけだと迷わず一緒に買った。
取っ手を対角にしてすっぽり入る箱に詰めてくれて、
アメリカにしてはちゃんと箱まで用意してあって
準備がいいなとそのときは好感を持ったのだけれど、
逆に箱に入っているとなかなか出す機会がない。


たまたま思い出して、使わなくちゃ意味がないと
久しぶりに手に取ったら普通のコーヒーカップ
優に二倍は入るのではないかというくらいでかくて、
側面にシカゴの景色がシルエットで描かれている、
そんな大きなマグで美味しいコーヒーを淹れて飲んだ。
いい豆だったのに、ミルクを入れてごめんなさい。