一度きり、それそのもので指し示すこと

さて、このチョコレートケーキに
入っているものはなんでしょう?


元日付けのScienceに昨年のジャーナルクラブで
電子版(ScienceXpress)の方を紹介した論文
掲載されていて、意識を特徴付けるものとして、
神経活動の強度や持続時間の他に、再現性を
定量化できる指標として提案していた。


その解説記事にこんな指摘が。

Reproducibility of response patterns to
a sensory stimulus can by definition only be
assessed across multiple presentations of that
stimulus. But we do not have any difficulty
seeing a single stimulus on its own.
So reproducibility per se cannot determine
whether a single stimulus enters consciousness
or not, but must indicate something about
the nature of the underlying mechanisms.


言われれば当たり前だけど、自明ではない。
これを書いた人はどこまで意識的だろう。


その定義からして、再現性そのものは、
ある刺激が「1回」だけ呈示されたときに
それが意識に上るかどうかを決定できない。
再現性が統計的性質であって、原理的には
少なくとも二回、正と副の二対があって
初めて比較できて、再現できたかどうかを
判断するわけだから一度きりでは足りぬ。


いや、ちがうなあ。
再現性は相対評価で、Aに近いのはBかCか、
つまり、BとCのどちらがよりAを再現できたか
というのを言うことしかできない。
でも現実的には、A1対A2と、B1対B2で
どちらが一貫性が高いかを比較するのかな。
だとしたら最低、二対×2組必要だ。


ところで、時間的な順序を気にしないなら、
再現性じゃなくて一貫性とか類似度でもいい
ような気がするけれど、使い分けがあるのかな。
「再(re-)」には時間的な前後関係まで
含意されているような気がするから。


そもそも、1回のイベントというのを
どうやって規定するのかが問題なのだ。


現実的に、「1回」には時間幅があって
有限のtime binをどこかで区切って、
同時にもちろん空間的にも分節したり、
概念とか記憶とか抽象的な空間でも何らかの
(無理やり)数えられるようなまとまりがあって
ここまでを1回とかひとつなどと数える。
一度とかひとつとか、"one-shot"とか、
刺激とかの数え方や回数の数え方における
onenessやoncenessってのはなんだろう。


そういう次元と、もっとミクロなたとえば
ニューロンにとっての回数はこれまた違う。
何かが見えた瞬間にガンマ帯で同期したとしよう。
ものが見えたというその経験は一度きりでも、
ピークが40Hzで同期してるのが0.1秒間としても、
でも同期に与しているニューロンはだいたい
単純に考えても4回は発火していることになる。
もっと少ないのとかもっと多いのとかいろいろ
いるはずだし、グローバルに同期する前後にも
ばらばらに発火していたはずだし、ともかく、
見えたときに活動したニューロンがおしなべて
ちょうど1回だけ発火したなんてわけはない。


心理的につぶれた瞬間に何度と発火しても
全部ノーカンでそれは1回と数えるとか?
相互作用同時性が言う、相互作用をもっと
explicitに書き下せたら、あるいは。


再現性の話に戻ると、コンセプトとしても
A'がBではなくてAであると判断できる、
同一性を保証するのが再現性なのはいい。
(意識とは関係なく。いや、絶対関係する?)
でもそのときに、一番最初にAを学習したときに、
二番目以降のA'、A''、A'''、・・・はいいとして、
(すでに作られた箱の中に入れるだけだから)、
同一カテゴリのものと比較する対象がなかった
学習前のAはどうやって見えていたのか。
プロトタイプ理論のプロトタイプはどうやって
学習されるのか。複数比較で発見されるのかな。
Wittgensteinのfamily resemblanceでも、
類似性と差異を定義するのは困難でないのかな。


箱に容れるという比喩がすでに間違いの元か。
あらかじめ容れるべき箱があるのではなくて、
いろんなものを入れながら箱ができるんだよ。
空間そのものがどうやって成り立つかと同型の問題。
でもその箱の作られ方が分からないのが悩み。
(物理ではbackground independenceと言う。)
箱っていう仕切りがあって境界線のあるもの
しかイメージできない認知的限界のせいもある。
見比べて、同じような部分と違うような部分を
探し出して、比較して、世界を切り分けていく。
規則性と無秩序性が適度に入り乱れたこの世界を。


しつこく、再現性についてに戻ると、
(発展性乏しく再帰してるかもしれない)
統計的アンサンブルとかエルゴード性
(まで持ち出すと飛躍しすぎだけれど)
などについて思いを馳せると(空想すると)、
再現性は必ずしも複数回の比較でなくても、
もう少し正確に言うと、時間的な二対の
対照である必要は実はないのかもしれない。
それは、先験的対応の意味するところ
が分かれば、もうすこし明るい気がする。
先験的対応が成り立つこととエルゴード仮説
成り立つことは同じことではないのかな。
敢えて言うなら、イデア界の対象との比較
とでも呼ぶべき無茶なメタファーでどうか。
だんだん荒唐無稽になってきて楽しすぎる。


もとい、正気に戻ると、全く同一神経パターンに
回帰しなくても、同じものを指し示せるとか、
似た意識状態になることができるということは、
やっぱり、再現性の問題が潜んでいるわけだ。


それは、意識の力学系があれば、(神経活動の
物理的相互作用のみで意識が生まれるなら
大いに可能性が高いだろう。信念の問題だが。)
ポアンカレ再帰定理が成り立っていて、
相空間上で任意の近傍に有限時間で漸近できて、
きっとある有限の大きさを持った近傍の状態が
「同じ」であると判断されるのだろうから、
もしその同じものを表象する近傍が適度な
大きさであれば、あるものがいつも同じである
という判断が安定して成り立つことになる。
いやいや、ポアンカレ再帰定理は無関係で、
せめて(知ったかぶりでも)、クラス4に近い
からじゃないかなどと言った方が本当かも。


今日は飛ばしすぎたので、ここらで
empirical scienceに戻って頭を冷やす。


件のScienceの論文のレビュー(実は一番
最初に書き出したけれど、それ以外がふくれて
なぜか後回しになってしまったもの。)を
書いてみた。


左右の目に交互に補色(緑とオレンジなど)を
点滅させると融合して黄色に見えるのを用いた、
dichoptic color maskingという現象を使う。
緑とオレンジの二色で顔か家の線画を描き、
左右で同一刺激を見せると当然見えるけれど、
左右で色を入れ替えると相殺して見えないので、
意識に上る条件と上らない条件を用意できる。
顔か家かを二肢強制選択で選ばせるのが課題。


この現象自体は前から知られて研究されていて、
たとえ意識に上らなくても、意識に上るときと
同じ部位(FFAやPPA)が振幅は弱いが賦活する。
なので、活動の強度が意識に上るかどうかの
要因の一つということを支持する例になる。


呈示された刺激が顔か家かを当てる課題と言い、
fMRIのmulti-voxel pattern analysis(MVPA)
を使ったmind readingのひとつという意味でも、
また代わり映えのしないその組み合わせなのか
という感じが最初はしたけれど、新しいのは
意識に上ったかどうかという要素も入れて
decodingし、かつ新しい指標を導入した点。


Informativeなvoxel群の活動パターンの近さ
(多次元ベクトルのなす角度のばらつき)
を再現性として定義している。なるほど、
あっさり具体的に分かりやすく定量化。


意識に上らない刺激呈示条件の活動から
顔か家のカテゴリー弁別を機械学習させて
弁別にとってinformativeなvoxel群を選ぶ。
そして、そのvoxel群だけに注目した上で、
意識に上る刺激に対する活動パターンの方が、
上らないときよりも再現性が有意に高かった!
(しかし、意識に上る条件下の活動で学習させて
選んだvoxel群だけに注目した場合は、意識に
上る刺激かどうかで再現性に差はなかった。)


言葉にしても、あんまりすごさが伝わらない。


見落としがちだけれど、かなり重要なのは、
informative voxelsが賦活しているvoxels
とは限らないというところだと思った。
もちろん、fMRIで光るのとニューロンの発火を
ごっちゃにするのはいい加減すぎるけれど、
それを承知の上でゆるく書くことにすると、
発火していないvoxelがinformativeである、
ということがあり得るとしたら大変なことだ。
認識のニューロン原理に抵触しないか冷や汗。
発火しないニューロンは存在しないのと同じだ、
の言わんとするところを突っ込んで理解したい。


ああ、統計的な意味でinformativeである
ということと、もっと原理的な厳密な意味での
発火しないということは全然違うレベルなのか。
Classifierで学習するときにも統計が入るし、
そもそも、生理学的にvoxelを構成する
たっくさんのニューロン活動の加算平均
(をさらにならして、血流量の変化にして)
というところでも統計的な要素が存分に。


今回の実験の結果では、informativeな
voxel群は、賦活すると予想される部位と
重なっていたので、plausibleになってた。
もしそうでなければ解釈できなかったはず。
だけど、だったらclassifierなど使わず、
賦活した領域の再現性だけを計算する
というのではだめだったんだろうか。
いや、そもそも、informativeでありかつ
賦活しないvoxelsはどれくらいあって、
それらの再現性を求めたらどうなる。
疑問は尽きないけれど、この辺で。


姉が焼いてくれたチョコレートケーキに
入っているものを当てられたらお年玉あげる、
と母が笑いながらうれしそうに聞くので、
一生懸命考えて、まずはチョコレート、
と答えたら、それは当たり前でしょと。
何かかたまりが入っていて不思議な食感。


それで次に、レーズン?と答えたら、
またも、ブッブー、はずれという返答。
何かのベリーみたいなものが入ってて、
ベリー系の皮みたいのが歯に当たるので
ブルーベリー?と言ってもこれも違う。
たしかに、もし何とかベリーだったら
生地の中で形を保てないはずだろう。


そして10秒からカウントダウンされて、
はい、タイムオーバーです残念でした。
答えは黒豆です。ということだった。
それは思いつかなかった。変わった素材で、
今がお正月だということを失念してた。


もう一息で答えにたどり着けそうで、
悔しかったものの、ケーキは美味しく満足。
チョコレートと黒豆は意外に相性がいい。


食べていて黒豆だと気が付かなかった
ケーキの中に1回だけ入っていたものは。