1973年のピンボール

1973
村上春樹の初期三部作の中の第二作ということらしい。
鼠と呼ばれる青年と「僕」が主な登場人物の作品群。


僕は双子の女の子2人と暮らしている。
あんまりそっくりなので、区別がつかなくて困る。
右と左、どうと呼んでも大差ないのかも。
208、209というTシャツを着ているので、
ためしにそう呼び分けようとしたら、すぐに
するりと脱いでシャツを交換してしまう。


あるとき、配電盤が壊れているのでと
修理の人がやってきて、どこにあるのか尋ねる。
僕は場所を知らないけれど、双子が知っていた。
なんで僕も知らないことをしっているんだろう。
壊れた配電盤は引き取ってもらわずに手元に
しばらく置くことにする。もう使えないけど、
すぐに捨ててしまってはいけない気がして。
その配電盤は、丁重に葬る儀式のために、
貯水池まで運んで行って一心に投げ入れた。


鼠の行きつけのバー、ジェイズバーには
マスターのジェイがいて、芋の皮を削っている。
彼らは昔から気心が知れていて、以心伝心。
店にかけるLPの趣味もよく合っている。
そこにはかつて、3フリッパーのスペースシップ
というピンボールがあって、僕はそれに
はまり込んで、ついに最高得点を出す。
そのピンボールは廃棄処分になって今はない。


春樹の作品はウェットですよね?と訊いたら、
いや、ドライだ。ドライの中にもウェット寄りが
あるとかいう風に答えたからその評論家のことは
信頼しないことにした。と保坂和志が書いてた。
ドライかウェットかという分類は分からないけど、
ドライを装っているからドライ、ではないだろう。
そのままウェットに表現する以外の方法はある。


また、村上春樹が現れたとき、ヴォネガット
真似だろうと思って、才能を私は見抜けなかった、
大江健三郎は後で述懐したそうだ。
正直な感想なのだから、それは仕方ないだろう。
春樹自身も自分は日本の小説はあまり読まないし、
海外の作品をより好むというようなことを言ってた。
だからか、いつも一瞬だけ翻訳を読んでいるような
錯覚に襲われて、それが特徴の一つではある。


でも実際のところ、他の人の評価とか感想とか、
そんなのあんまり気にしなくていいと勝手に思う。
どうせ自分が読むときには、自分の感想しかない。
参考にしないという意味ではなく、耳を塞ぐのでもなく。
正しい印象というものなんて存在しないはずなので、
誤読を推奨しているわけではないけれど、好きに
感じ取れたらそれでいいんじゃないかと思う。


自分がどう感じたかを表すのは、作品を作るのと
同じくらい難しくて苦しくて大変な作業だと思う。
それを忘れないように書き記すだけで疲れてしまう。
でも、薄れて消えてしまう前に何か留めておきたい。