耽落を棄てて自らを投企せよ

わたしはこの世界のなかに投げ込まれており、
なんぴとたりともそれを逃れることができない。
ということを、ハイデッガーは被投性と呼んだ。


これに無自覚で没入しふけっている状態は耽落である。
早くこのぬるま湯から抜け出し世界と対峙すべきだ。


そして生の有限さに気付き、先駆的覚悟性を得てなお、
主体性を発揮し得る自分の可能性を信じて賭ける。
今度は自らを投げることをたくらむので投企と呼ぶ。
けだし、自分を投企するのがわたしの意味である。


先々開かれた未来へ自らを奮い立たせること。
サルトルは、未来に向かって自らを投げかけ、
未来の中に自らを投企するのが人間だと言った。


世界のなかに被投された自分を自ら未来に投企する、
すなわち、空間性から時間性へと拡張されるのが
わたしとでも呼ばれるべきものの運動になる。


ならば、わたしというのは世界のひとつの場所の
名前であり、未来の別名でもあるのだろう。